北野異人館旧レイン邸
~4話~

ー北野坂ー

七海

(お母さん……今日も元気なかったな)

体調が辛いのをこらえながらも、いつも通り笑顔を見せるお母さんの姿が胸に残っている。

七海

(しかも入院してから痩せちゃった気がするのが気ががりだな)

七海

(本当に、ちゃんと治るんだよね。退院だってできるんだよね?)

七海

(こんなこと、友達にだって相談できないし……)

不安な思いを聞いてくれる家族も他にいないから、どんどん心の中に抱えて溜め込んでしまう。

七海

でも、最近は零弐さんやニーヤたちのおかげで癒されてるかもな……。

そんなことを考えながら、いつしか歩き慣れてしまった病院からの帰り道をぼーっと歩いていた。

七海

(そういえば、このへんでよくニーヤたちに会うんだよね)

パァン! パァーーーーンッ!!

七海

な、何!?

急に聞こえた激しいクラクションに、ハッと視線を上げる。

すぐ近くに、急に曲がってきた乗用車が迫ってきていた。

その運転席に乗っている男性の驚いている顔がはっきり見える。

七海

(……うそっ!?)

信じられない思いが強く、突然のことに体が強張って足がすくんでしまう。

零弐

何やってんだ。轢かれるぞ!

誰かが私を歩道側に荒っぽく引っ張り、その横をすごい勢いで車が走り抜けていく。

零弐

お前、何ぼーっとしているんだよ。今度こそ命が無くなるぞ!

歩道の方に倒れこみそうになりながら、私はしっかりと安全な歩道に引っ張ってくれたその相手をじっと見つめる。

七海

……零弐、さん……。

その人は間違いなく零弐さんで、でもいつもの飄々とした表情ではなく鋭い瞳で私を見ていた。

急に車に轢かれそうになった恐怖感と、零弐さんに助けてもらったという安堵で全然力が入らない。

零弐

おい、聞いてるか? ここで事故に遭いそうになりすぎだろ。もっと気をつけろ!

七海

ご、ごめんなさ……。

耳元で聞こえる心配と呆れまじりの大きな声。

それを聞いていると、色々と悩んでいたことも重なって、急に涙腺がゆるんでしまう。

七海

……あの……私っ……。

一気にじわっと目頭が熱くなった。涙が零れそうになって、慌てて誤魔化そうとした瞬間、

零弐

悪いっ。……言い過ぎた。

零弐

つい怒鳴ったりしてごめん。……七海さん、大丈夫だった?

我に返ったように謝る零弐さんを見て、

七海

──っ…………。

私は恥ずかしさと情けなさで、とっさにその手を払ってしまった。

零弐

…………。

七海

……あの……。

零弐

あのさ、とりあえずうちに来ない?

七海

……うん。

落ち着かない気持ちを抑えながら、それでも零弐さんの優しい言葉につい甘えてしまう。

小さく頷くと、零弐さんの後について歩き始めたのだった。

ーレイン邸室内ー

零弐

七海さん、大丈夫? 少し落ち着いた?

零弐さんは私を家に招くと、まずはコーヒーを淹れてくれた。

七海

……ありがとう。さっきはすみませんでした。助けてもらっちゃって……。

コーヒーは、良い匂いがして温かくて少し気持ちをほっとさせてくれる気がした。

零弐

いえいえ。落ち着いたみたいで良かったよ。

七海

私……。つい、ぼーっと考え事しながら暗い気持ちで歩いてたから。

零弐

……そうだったんだ。

零弐さんは私にどうしたのかと無理に聞き出すこともなく、ただ横でゆっくりとコーヒーを飲んでいる。

何だかその間合いが心地よかった。

七海

あの、私。

零弐

……うん。

七海

私のお母さんが、今、この坂の上の病院に入院してて……。

零弐

……うん。

零弐さんは、決して急かすことなく、ぽつりぽつりと話す私の速度よりもゆっくりと優しく相槌を打ってくれる。

七海

だから、いつも看病の行き帰りに、北野坂を通ってて。

零弐

そうか、それでよくこの坂を通ってたんだ。

七海

うん、学校が終わると毎日病院に通ってるの。

七海

だけど、お母さん。全然、具合が良くならなくて。

零弐

…………。

七海

本当はお母さんの病気、ずっと治らないんじゃないかってすごく不安で……。

冷静に話していたつもりが、内心でずっと思っていた不安を吐露した瞬間。

感情があふれ出そうになって、声が泣く寸前みたいに震えてしまう。

七海

…………っ。

慌てて細く長い息を吐き出して、気持ちが乱れることのないように、呼吸を整える。

零弐

そうだったのか……。

零弐さんは掛ける言葉に迷う様に、私の顔を見つめ、それからそっと視線を伏せた。

それでも寄り添うように穏やかに話を聞いてくれる零弐さんに、私はすごくほっとしていた。

だからつい、普段なら言わないことを口にしてしまったのかもしれない。

七海

ねえ、零弐さん……。

零弐

うん。

七海

零弐さんってお医者さん目指してたんでしょ?

七海

うちのお母さん……大丈夫かな?

零弐

…………。

私に視線を向けていた零弐さんは、その言葉に、一瞬視線を揺らがせた。

七海

そんな急に何かあったりしないよね? 私、一人になっちゃうよ……。

気づけばぎゅっと手のひらをきつく握りしめて零弐さんに尋ねていた。

零弐

一人になっちゃう……って?

零弐さんはびっくりした顔をして、私に聞き返す。

七海

あ……私、お父さんを早く亡くしてて兄弟もいないから。

零弐

……そう、だったんだ。

七海

うん。入院が長引いてるせいで最近そんなことばっかり考えちゃって。

誰かの前で、素直に不安な思いを話したのはすごく久しぶりだった。

とっさにまた泣きたくなってしまう、自分の荒れ狂う感情に唇をかみしめて堪える。

七海

(大丈夫。ゆっくりと落ち着いてしゃべったら、冷静に話せるよね)

私は感情をコントロールするように、もう一度、ゆっくりと息をついた。

七海

お母さんを心配させないように、お見舞いでは明るく振舞ってるからそこは大丈夫だよ。

七海

それに担当のお医者さんだって、いい人で親身になってくれてるの。

必死に声の震えを抑え込みながら話す私に、零弐さんは一瞬顔を歪めると切なそうに瞳を細めて呟いた。

零弐

……最近の高校生は大人なんだな。

零弐

そんなに無理しなくていいのに。

しかし零弐さんの言葉は小さい呟きでよく聞き取れなかった。

七海

え……零弐さん、今何て?

零弐

……いや、別に。

零弐さんは静かにそう言いながら私を見つめ、優しく安心させるように言葉を続ける。

零弐

……きっと大丈夫だよ。

そう言ってくれたくせに、急に視線をきちんと合わせてくれなくなる。

零弐

うん……大丈夫、きっと治るよ。

七海

…………。

七海

(私を安心させるために言ってくれてるんだよね)

七海

(その気持ちは嬉しいな……)

七海

…………。

零弐

…………。

私が力なく視線を下に落とすと、零弐さんもそれ以上、何も言葉を紡ぐことはなかった。

夕暮れの近づく部屋の中で、私たちはしばらく言葉を交わすことなくたたずむ。

七海

(でも、不思議と嫌じゃないな)

???(猫)

ウニャ?

その時、どうしたの? というような声を上げて一匹のニーヤが部屋に入ってきた。

七海

ニーヤ……こっちおいで。

声を掛けると、その猫は少しこちらに歩き出して首をかしげて声を上げた。

ニーヤ

ミャア……。

語り掛ける様な様子に、思わず表情が緩んだ。

零弐

……ニーヤ、もうエサの時間か。

零弐さんもいつものような柔らかい表情をして、猫に話しかけている。

七海

(よかった、零弐さんもいつも通りだ)

私がそう思った瞬間、零弐さんがぽつりと猫につぶやく。

零弐

何も出来ないオレより、ニーヤの方が七海さんの役に立ってそうだな。

七海

………。

七海

(……もしかしたら零弐さん、自分のことを責めていたのかな)

七海

(お医者さんになるのをやめたのにも、いろいろ理由があったんだろうし……)

七海

(いきなり治るかなって聞かれても、答えようがないし困るよね)

七海

あの、さっきは変な話してゴメンね。困らせちゃったと思うし……。

申し訳なさがこみ上げてきて、零弐さんの表情を確認しながら謝罪する。

零弐

…………あのさ。

私の言葉を零弐さんは遮ると、視線を上げてじっと目線を交わす。

七海

……うん?

零弐

そういえばなんだけど、零弐って呼び捨てにしてくれていいよ?

七海

えっ?

零弐

友達はみんなオレのこと、零弐って呼び捨てだからさ。

七海

いや、でも……。

急に何を言い出すのかと思ってびっくりしている私に、零弐さんは淡々と言葉を続ける。

零弐

それに……友達なら、変な遠慮しないで話もできるだろ?

七海

(あ……、私を気遣ってるんだ)

零弐

オレじゃ何もできないかもしれないけどでも友達になったんだから、せめて遠慮しないで何でも頼ってよ。

そう一気に言うと、照れたような顔をして少し笑った。

七海

(ふふ、友達かあ。ちょっとくすぐったいけど、嬉しいかも)

七海

ありがとう。じゃ私のことも七海、でいいよ。……零弐。

零弐

…………七海、かぁ。

七海

……なんかちょっと変な感じ。

零弐

オレも少し変な感じがする。

零弐

しかし、自分からこんなに積極的に話したのって何年振りだろう……。

七海

……え? そうなの?

零弐

そうそう。何しろ年下で女子高生の友達なんて貴重だから……って、冗談だから……。

七海

…………。

零弐

まあ、誰かと積極的に話したくなったのが久し振りなのは本当だけど。

冗談を交えて話す零弐と顔を見合わせて、笑みが唇に浮かんだ瞬間。

ニーヤ

ウニャーーン?

仲直りしたの? という様に部屋の隅にいた猫が首をかしげるようにする。

零弐

こっちおいで、ニーヤ。

いつも通りの笑顔の零弐を見て、ニーヤはこちらに向かって歩いてくる。

七海

あ〜。私の方においで、ニーヤ。撫でてあげるから。

その言葉にニーヤは嬉しそうにニャアと鳴いて、私と零弐それぞれにすり寄ってくる。

2人に撫でられながら、機嫌よさげに目を細め、喉をゴロゴロと鳴らす仕草が可愛い。

ちらりと零弐を見てみる。

端正な横顔はとても優しくて、いつの間にか一緒にいるだけで安心している自分に小さく笑みが漏れた。

……数日後に、まさかあんな事態が待ち受けているとは夢にも思わずに。