ーレイン邸室内ー
ニーヤ、よしよし。気持ちいいかあ。
オレに撫でられて、ニーヤは機嫌よさげにゴロゴロと喉を鳴らす。
そんなニーヤを眺めながら、オレはいつしか先日の七海の顔を思い浮かべていた。
不安そうに震えていた手。普段の少しクールな表情を歪めて、子供みたいに涙を流していたこと。
七海……やっぱり不安なんだよな。
ニャ?
自分に話しかけられたと思ったのだろうか、ニーヤは首をかしげる様な仕草をした。
なあ、やっぱ七海を安心させてあげたいよな。
ニャーン。
そういえばこのニーヤは、七海が助けた白猫ニーヤだったことを思い出す。
そっか、お前助けてもらったもんな。
オレもただ、家にじっとしているより少しでも七海の為に何かできないかって考えてみるのも悪くないかもな。
ニャン。
言葉を理解しているかのように白猫はオレの手首に顔をすり寄せて、もう一声高らかに鳴いた。
・
・
・
ー病院ー
(勢いで家を出てきちゃったけど……)
気づけば、オレは七海のお母さんが入院している坂の上の病院までやってきていた。
(オレ、ここに何をしに来たんだろう)
自分の意味不明な行動力に、思わず首をかしげてしまう。
ー病院廊下ー
入り口をくぐり中に入ってみたが、懐かしい病院の匂いに何とも言えない気持ちになった。
医学生ですらない自分は、ここに来たからといって、七海のお母さんのために何かができるわけでもない。
(空回りしてるかも、オレ)
だんだんと、懐かしさよりも切ない気持ちが湧き上がってきて、逃げるように外に出ようとした瞬間。
おい、零弐じゃないか! お前何やってんだ。
……大崎。
声を掛けてきたのは、医学生時代の知り合いである大崎だった。
この病院に勤務してたのか。
ああ、あれからこっちに異動になってな。
白衣を着た大崎の胸元には、『医師』と書かれた名札が見える。
って、お前、医学部辞めたんだって?
少し声を低め、様子をうかがうように尋ねてくる大崎に、オレは小さく苦笑を浮かべて頷いた。
まあ……色々あってね。
そうか。でもお前適性もあるし、医者にも向いている性格なのに、辞めたのホントもったいないよ。
大学の単位もほとんど取ってたんだろ? その事情とやらが解決したら、もう一度勉強し直せよ。
まあ……考えておく。
苦笑しながら答えると、大崎は肩をすくめた。
で、お前は何で今日ここに?
えっと……オレ、ここの近所に住んでるから。
なるほど、ってお前、通院か? どこか体の調子悪いのか?
心配そうにオレを見る大崎に、慌てて顔を横に振った。
いや。実はここの病院に友達のお母さんが入院してて。
ああ、見舞いに来たのか。ちなみに何て患者さんだ?
あ、有馬さんって人だけど。
有馬さんか! それだったら俺の担当……。
と言いかけたところで、大崎の視線が入院病棟の方に向いた。
って、噂をすれば影だな。──有馬さんいいところに。
こんにちは、先生。先日はありがとうございました。
深々と頭を下げるのは、淡い色のパジャマにカーディガンを羽織った、小柄で優しそうな顔をした女性だった。
(入院患者さんかな?)
って……有馬?
こんにちは、有馬さん。今ちょうど、コイツと有馬さんの噂をしてたところだったんです。
あら、そうだったんですか?
誰だろうという顔をしてオレの顔を確認する女性の顔は、言われてみると、七海の面影があるような気がした。
(有馬って……やっぱり七海のお母さん、なのか?)
(ちょ、ちょっと待って。向こうはオレのことなんて、よくわかってるはずないのに……!)
予想外の展開に何て言っていいのかわからなくなり、目線が泳いでしまう。
もしかして……零弐さんかしら? いつも娘がお世話になっている。
七海のお母さんは、どこか面白そうに唇に笑みを浮かべ、オレに向かって会釈をした。
あ、はい、そうです。はじめまして、零弐・レインです。
お、やっぱり零弐が言っていたのは有馬さんか。
大崎はオレと七海のお母さんとの会話を頷きながら聞いている。
はじめまして。七海の母です。この間私が倒れた時には、七海がご迷惑をおかけしたみたいで。
いえ、こちらこそ突然すみません。
有馬さんも、この間は体調を突然崩されて大変でしたけど、最近はだいぶ落ち着いてきてますからね。
このまま発作が起きなければ、もう大丈夫でしょう。退院までもう少し頑張りましょうね。
(発作……か)
はい、ありがとうございます。
発作という言葉にドキリとするが、七海のお母さんの体調は良くなりつつあるようで、密かにほっとしていた。
零弐は学生時代の知り合いでね。いやまさか有馬さんと面識があるとは。
その時、大崎の胸のポケットに入っている呼び出しのベルが鳴る。
失礼。ちょっと呼び出しが掛かっているから。零弐またな。──有馬さん、失礼します。
そう言うと大崎はオレたちに会釈をしてそのままその場を立ち去った。
(……まさかこんな形で、本当に七海のお母さんに会うことになるとは)
予想外の展開に狼狽しているオレを見て七海のお母さんは、七海とそっくりな表情で、くすりと笑みを浮かべた。
話は七海から聞いています。色々とあの子を助けていただいているみたいで、ありがとうございます。
いえ、オレ……何もできてないですから。
そんなことないですよ。七海の顔を見ていたらわかりますもん。
私がこんな状態で七海にはすごく不安な思いをさせて、連日の看病でも疲れさせてしまって。
…………。
でもね。この間、七海が聞かせてくれた零弐さんの話や、たくさんの猫の……ニーヤ、でしたっけ?
そんな話をしている七海は、久しぶりに笑顔いっぱいで、楽しそうだったの。
そう……だといいんですが。
本当よ。零弐さんのおかげで息抜きができているみたい。
あの子、大人っぽく見えるけれど一人で無理させちゃって心配だったから零弐さんにはすごく感謝しています。
七海のお母さんは、ふわっと七海によく似た笑みを浮かべる。
七海さん、懸命に頑張っていると思います。それに本当にお母さん想いで……。
最初七海さんに会った時は、気が張っていたのか、すごくしっかりしていて、気丈な人に思えたんですけど……。
本当は繊細なところがたくさんあって、高校生なのに一生懸命頑張ってるし、本気で偉いなって思ってます。
思わず必死に七海の話をしているオレを見て、七海のお母さんは優しい笑顔を浮かべる。
そう……でもね、そうやって七海が今頑張れているのは、零弐さんと猫さんたちのおかげじゃないかと思ってるの。
零弐さん、七海を心配してくれて、本当にありがとう。
目尻を下げて、柔らかく微笑む七海のお母さんの笑みは、すごく温かくて優しい。
(オレなんて……何も……)
その優しさが、苦しいほどぎゅっとオレの胸を締めつける。
(今まで何もしてこなかったのに。全然頑張ってきてないのに……)
締め付ける胸が苦しいまま、オレは七海のお母さんに向かって、自分の過去の話をし始めていた。
あの、七海さんが話しているかもしれないんですけど、オレ、医学部に進学して医者になる勉強してたんです。
なのに、医学への道も何もかも全部途中で投げ出してしまって、今は無気力で何もできてなくて……。
…………。
うっすら笑みを浮かべて優しい表情を崩さない七海のお母さんに、オレは言葉を続ける。
それなのに七海さんと、そのお母さんの容体が気になって仕方なくて、気付けばこんなところまで来てました。
何の覚悟もないのに……すみませんでした。
はぁっと息を吐き出して素直に謝ると、七海のお母さんは柔らかな笑顔で頷いてくれた。
ねえ、零弐さん。貴方は医学の道を投げ出したっていうけれど、
その事実に対して、自分は無力だとモヤモヤしているのはどうしてかしら。
…………。
その言葉に胸を突かれるような思いがした。
本心では、色々考えているからこそ、モヤモヤを胸に抱えてるんじゃないかなって私は思うんだけど。
…………。
きっとあなたは優しい人なのだと思うわ。たぶん、すごく。
だからどこかで傷ついて、医学の道を諦めざるを得なかったのかもしれないわね。
でも、七海のことを思ってここに来てくれたことが、思い悩んでいることの一つの答えなのかもしれないわよ?
(……オレは、自信のなさからくる恐怖心を『優しさ』とごまかして、オレ自身医者になるのを諦めたんじゃないのか……)
何となくうすうす感づいていたことを具体的に言われて、オレは目から鱗が落ちる様な気がした。
(諦めきれてなかったから、オレは先に進めずにずっと立ち止まっていたのかもしれない……)
(本当は、医者になることを諦めたくなかったから……)
一度逃げた自分が、再び医者になりたいなんて思ってはいけないと、そう考えていたのに。
(でも、本当はそんなことはないのかもしれない)
自分の中でずっと認められなかった思いが、ストンと胸の中のあるべき所へ落ちていくような気がした。
七海のお母さんは、ふわりと優しい笑みを浮かべた後、少しだけ目を閉じて何かを思い描くような顔をする。
ねえ、零弐さん。人の命って決して平等ではないと思うわ。時には理不尽な形で奪われることも少なくない。
でもね、人生に悔いはない、精一杯生きたって思えたら、人はそれだけで幸せな気がするの。
私、悔いのない幸せな人生だったと最後の瞬間に思いたい、ってそう考えているわ。
そうですね……。
それはオレに話しているようだけど、七海のお母さんが自分自身に語りかけている言葉のようにも思えた。
だから、私は精一杯生きて、早く元気になるように全力で頑張るわ。
はい、七海さんもそれを望んでいると思います。
オレの言葉に笑顔で頷いてくれる七海のお母さん。だが、少し話し過ぎたのか、顔に疲れが出ているような気がした。
あ、すみません。こんなところで長い立ち話をしてしまって。
部屋に戻って休まれた方がいいですね。
ごめんなさい。楽しかったけど、確かに少し疲れたかもね。まだ体が本調子じゃないのね。
それじゃあ、そろそろ部屋に戻ろうかしら。
七海のお母さんはオレに軽く頭を下げると、入院病棟に向かって戻り始める。
あの……驚かせちゃうので、今日オレが来たことは、七海さんには内緒にしてもらえませんか?
オレがその背に声を掛けると、七海のお母さんは振り向いてくすりと笑う。
ふふ。その話がいつ七海に解禁になるのか、今から楽しみね。
……じゃあ、またね。
はい。お大事にしてください!
七海のお母さんは、笑顔で手を振りその場を立ち去ったのだった。
︙
ー北野坂ー
私はその日もお母さんの看病のために病院に向かって坂を上っていた。
目線を上げると、途中で坂を下りてくる零弐を見つけて驚いてしまう。
あれ……零弐?
──うわ、七海! ……向こうで出くわさなくてよかった。
え? 向こう?
い、いや。何でもないよ。
くすっと笑顔を見せた零弐は、何だかいつもより明るい顔をしている気がした。
私、これからお母さんのお見舞いに行くんだ。
そっか。偉いな。
いつもより零弐が真っ直ぐに褒めてくれたことに妙な違和感を覚える。
う、うん。あのね。この間は本当にありがとう。お母さん、だいぶ元気になったんだよ。
そっか、本当に良かったよ。あ、……あのさ。
オレ、七海を応援しているから。
だから、今は一生懸命、お母さんを励ましてあげてよ。
気付けば照れている私よりも、もっと上気したような赤い顔をした零弐が、私の目を見つめてそう告げた。
……零弐……。
それで、七海が辛いときは頼ってくれていいから。
何もできないかもしれないけど、でもオレにできることがあれば言って欲しい。
飄々としたいつもの表情ではなく、どこか凛とした雰囲気を漂わせながら零弐がそう言ってくれる。
そっと、零弐の手が安心させるように私の腕に触れた。
(今日の零弐……。いつもとどこか雰囲気が違う……)
普段は柔らかな春の風みたいな零弐の雰囲気が、ちょっぴり大人びた表情のせいで、ずいぶん違う感じに思えた。
(よくわかんないけど……零弐、何かが変わったような気がする……)
いつもとどこか違う零弐の表情に、ドキドキとする私の胸の鼓動はなかなか治まらなかった。