ーレイン邸ー
──え、ここが自宅なんですか?
たどり着いたのは、北野坂から少し上がったところにある立派な洋館で、私はかなり驚いてしまった。
──ああ、入って。誰もいないから遠慮しないでいいよ。
(誰もいないなら、逆にお邪魔したらまずい気がするけど……。でも気にしてなさそうだよね?)
逆にそんなことを気にしている自分が少し恥ずかしくて、私は気にしてないふりをして招かれた家に入っていった。
︙
ーレイン邸室内ー
えっと、ここら辺に薬箱あったよな。──あ、あったあった。
彼は薬箱をテーブルに置くと、所在なさげに立っている私に椅子に座るようにすすめた。
えっと……君、そこに座ってくれる?
あの私、有馬 七海(ありま ななみ)って言います。貴方が車に轢かれそうになった私をかばってくれたんですよね。
有馬さんか。オレは零弐(れいじ)。零弐・レイン。
──君をかばった? ……うん、まあ……そんな感じかな?
れいじ・れいん? ──レインさん、ですか?
ああ、親がフランス人だから。まあオレのことは、零弐でいいよ。
零弐さん、ですね。じゃあ私も七海と呼んでください。
七海さんね、うんわかった。よろしく。
じゃあ早速、傷の消毒しますね。
手を洗った後、大きく擦りむいた零弐さんの左腕に消毒薬をつけたコットンで触れる。
──っつぅ〜っ。
しみました? 大丈夫ですか?
ああ、大丈夫、大丈夫。
零弐さんは私に気を遣わせないように、柔らかく瞳を細めて笑う。
消毒したんで、ガーゼで傷を覆って医療用テープで止めておいたら大丈夫ですよね。
あ、でも医療用テープ切らしてるんだ。ちょっと大げさだけど、代わりに包帯でもいいかな。
わかりました。
私はようやく血が止まりかかった傷をガーゼでそっと覆い、包帯を手に取って零弐さんの腕に巻き始めた。
そういえば……、こんな広い家に一人で住んでるんですか?
何となく気になって、包帯を巻きながら聞いてみる。
ああ……。まあ一応親と一緒に住んでいるけど、忙しくて結局一人のことが多いかな。
そうなんですか。
(確かに一人暮らしするには大きすぎる家だよね)
会話を交わしながら、私は一生懸命に包帯を巻こうと思うのだけど……。
(うーん、何だか上手く巻けないな。それに私もさっきの事故で痛めた手首の調子が悪くなってきたな……)
あ、ずれにくいように麦穂帯(ばくすいたい)で巻いてもらった方がいいかもしれない。
──え? ばくすいたい?
零弐さんが言った言葉の意味が、わからなくて思わず聞き返してしまう。
……いや、何でもない。えっと、包帯を巻いたことってある?
そういえば、あまり巻いたことないかも……。
じゃあ、普通にぐるぐると環行(かんこう)で巻いてもらえたら……。
……かんこう?
……包帯の巻き方、詳しいんですね。
病院の人が言うような単語のような気がして、思わずそう言ってしまう。
──うん……。医学部の学生、してたからね。
零弐さんは何でもないことのように、さらりとそう答えた。
(医学生……だったら、私なんかが巻くよりずっと上手に包帯も巻けるんじゃ……)
(最初から言ってくれたらいいのに)
だ、だったら自分で巻いたほうが全然いいじゃないですか。
私は恥ずかしさをごまかすために、とっさにそう言ってそっぽを向いてしまった。
じゃあ、そうするか……。
零弐さんは私の言動に不機嫌になる様子もなく、片手だけで、するすると上手に包帯を巻き始める。
(──うわ、やっぱり上手)
(私をかばって怪我したのに、自分で包帯も巻くし全然怒らないんだ……)
私が内心申し訳なさを感じていると、一人で包帯を巻き終えた零弐さんは声を掛けてきた。
七海さん。ちょっと、腕貸して。
──え?
君もさっき怪我してただろ? 包帯も巻きにくそうにしてたし。
(気づいてくれてたんだ……)
零弐さんは大きな手のひらで私の手を取ると、湿布を貼り、包帯で上手に固定しようとしてくれた。
ほんの少し冷たくて、さらりとした手のひらの感触を心地よく感じる。
(なんか、本当のお医者さんみたい)
(私の怪我もすぐに気づいてくれたし、対応も的確だったし)
うん、よし。一応包帯で固定しておいたから、数日は無理に動かすなよ。
不愛想なくせに、優しくて丁寧な処置の仕方に、思わず胸がドキっとしてしまった。
あ、ありがとうございます。
零弐さんなら、きっといいお医者さんになりますね。
私がそう言うと、零弐さんはほんの少しだけ複雑な顔をする。
いや……オレは医者にはならない。とっくに医学部も中退しちゃったしな。
え……、そうなんですか。
(何か事情があってお医者さんになるの諦めたのかな)
じゃあ、今は何をしているんですか?
今……今は何もしてないなあ。
え? 何もしてないって……。じゃあ普段はどうしているんですか?
うーん……。ここでのんびりやっているよ。別に今やりたいこともないしね。
(仕事しなくても大丈夫なのかな)
まあ、30歳になるまでには何かしないとだな〜と思ってるけど。
ちょ……ちょっと待ってください!? 30歳までにはって……零弐さん、今いくつなんですか?
(自分より少し年上ぐらいにしか見えないのに、30歳になるまでって)
(一体どれだけ先まで何もしない気なんだろう)
うーんと、今何歳になったんだっけ。東京の大学入って、四回生でやめてから家にいて……。
あー……だから、今26歳か……。
え? 私と10歳近く違うんですか!?
思わずびっくりして声を上げると、目の前の零弐さんもびっくりした顔で私を見つめた。
え? 七海さん、……もしかして今、高校生なの?
ずいぶんと大人っぽいな……。
焦ったように聞き返されて、私も苦笑を浮かべてしまう。
はい、高校2年生です。いつも結構年上にみられるんですよね。
(大人びて見られるのはあまり嬉しくないんだけどな……)
そうなのか。いやしっかりしているからすっかり成人してて社会人かと……。
しゃ、社会人って……。
それを言ったら、零弐さんもせいぜい学生ぐらいにしか見えませんよ。
そうか。周りの奴らには、正体がつかめない奴だとは言われるけどね。
まあ、何だか理由はわかりますけど。
あ、そんなに敬語でかしこまらなくていいから。もっと気楽に喋ってくれていいよ。
ふわりとゆるい雰囲気でそう話す零弐さんは、やっぱりそんなに年上には見えなかった。
そ、そうですか? じゃあ少しだけ砕けた感じで。
うん、それでいいよ。
(穏やかで一緒にいて緊張しないし、本当にいいお医者さんになれそう)
(なのに、どうしてお医者さんになるのをやめちゃったんだろう……)
私はどうしても気になってしまい、ついその疑問を口にしてしまう。
あの、零弐さん。
どうかした?
えっと……どうしてお医者さんになるのやめちゃったんですか?
私の怪我にもちゃんと気づいてくれたし手当も上手で丁寧で、安心して話せる感じだし。
お医者さんって、零弐さんには適職だと思ったんだけど。
そう尋ねた瞬間、零弐さんは少し困ったような顔をして、私の言葉を遮った。
……そう言ってくれて嬉しいけど。でもさ、何のために医者になるのかわからなくなっちゃって。
え……?
まあ、そういうこと。
(何のためにって……)
しかし零弐さんはこの話題については話すつもりがないらしく、そのまま無言が続いてしまう。
急に気まずい雰囲気になってしまって、私は日差しが降り注ぐテラスに視線を向けた。
その瞬間、窓からふと顔を覗かせたものを見て、思わず目を丸くした。
──え? 猫?
ああ、ニーヤだ。おいで、ニーヤ。
その声に猫は嬉しそうに寄っていくと、抱き上げようとする零弐さんの手の甲に頭を擦りつけた。
(飼い猫が家に戻ってきたのかな……)
次の瞬間、チリンと小さな鈴の音がして大きな猫が部屋に入ってきた。
おお、ニーヤも帰ってきたのか。
え? そっちの猫がニーヤで、こっちの猫もニーヤなの?
零弐さんに抱きかかえられた普通サイズの猫と、足元にすり寄る大きな猫。
零弐さんはどちらにも、同じようにニーヤと呼びかけて柔和な笑顔を見せた。
そう、どっちの猫の名前も、ニーヤ。
というかうちに遊びに来る猫は全部ニーヤって呼んでいる。
え? どうしてみんな同じ名前なの?
だって、ニーヤって名前が猫には一番合ってるだろ?
(やっぱり零弐さんって……相当変わっているような気がする……)
とらえどころのない性格に言葉が出なくなっていると、また一匹新しい猫が部屋に入ってくる。
ニーヤ、お前も帰ってきたのか。うん? じゃあそろそろエサの時間なのか。
零弐さんはそういうと、3匹の猫を足元に手にじゃれつかせたまま、
リビングの一角に置かれているエサ用のお皿にたっぷりと猫のエサを盛る。
すぐにニャアニャアと騒がしい声がしてさらに数匹窓から猫たちが入ってくる光景に驚いてしまう。
(あっという間に、部屋中が猫だらけになっちゃった……)
おお、ニーヤ。お前も元気にしてたか? もうボスにケンカ売ったりするなよ?
そっちのニーヤは赤ちゃんを連れてきたのか。じゃあ、ニーヤの子供もニーヤだな。
目を丸くしている私をよそに、零弐さんは楽しそうに瞳を細めて、一匹一匹に『ニーヤ』と呼びかけ会話をする。
(なんか……すっごく幸せそうだな)
さっきまでどこか冷めていた表情が柔らかい笑顔に彩られると、元々の整った顔が一気に華やぐみたいだった。
(……零弐さん、すごくいい表情してる)
私は気付くと、猫と戯れる零弐さんにすっかり見惚れていた。
ニャー。
次の瞬間、真っ白な子猫が部屋に入ってきた。
あれ? この子って……。
私が数日前に、轢かれそうなところを助けた小さな白猫と同じ子のような気が何となくした。
(もしかしてこの猫たち、零弐さんに会いに来るために、あの道路を危ない横断してきてるんじゃないかな)
白猫は私を覚えていてくれたのか、いったん零弐さんに挨拶するように近寄って行った後、
今度は私にお礼でも言うみたいに近づいて来て、ニャーと一声鳴いた。
もしかしてお前もニーヤっていうの? でも、ここに来るのに、あの通りを渡って来るのは危ないよ?
私の声に、ニーヤはニャーと返事するように鳴いた。
ちゃんとわかってくれてるのかなぁ。
でも確かにお前たちが会いに来るの、ちょっとわかる気がするかも。
猫と楽しそうに戯れる零弐さんを見ていると、だんだんと穏やかで幸せな気持ちになってくる。
確かに悪い人じゃないもん。ちょっと不思議で変わった人だけどね。
猫だらけになったリビングの光景と猫と戯れる零弐さんの姿に、ニコニコと笑っている自分に気付く。
(このお家も零弐さんも本当に不思議)
でも、もうここに来ることもないはずなので、十分に遊んでいこうと近くの猫に手を伸ばす。
このときの私は、まさか零弐さんとの再会があんな形で訪れるとは思ってもいなかったのだ。