洋館長屋
~10話~

【==== 洋館長屋店内 ====】

優紀

……どうぞ、莉子さん。

布のかかった宝飾品用のトレイを、優紀さんが私の前に差し出した。

莉子

は、はい。

ドキドキしながら指を伸ばす。
そっと、布を外すと……。

莉子

………………。

莉子

…………わぁ……。

清楚なプラチナ色のケースに、マザーオブパールの文字盤……数字の代わりに置かれた小さなジルコニアは盤上をすっきりと見せながらも、品よくきらめいている。
そして文字盤に開いた小窓からは、時計内部の歯車が美しい動きを覗かせていた。

莉子

(……きれい……)

莉子

(だけど……。何より一番、私の目を惹くのは……)

翼を広げた青い鳥――
くるくると文字盤の上を飛んでいる、秒針についた青い鳥の飾りだった。

莉子

(なんて、手の込んだ作りなんだろう……)

莉子

(この鳥の青いのはガラスかな? それともアクリル?)

莉子

(丁寧に金属で枠を作って……ステンドグラスみたいにできてる)

莉子

(これを……優紀さんの手で、作ってくれたんだ……)

とても、とても、繊細で美しい鳥。

優紀

ど……どうですか?

腕にはめてみると、優紀さんが緊張した表情で尋ねる。

だけど、この感動を上手に伝える言葉が出てこなかった。
音になったのは、どれもつたなく、ありきたりな台詞ばかりだ。

莉子

あの……、つけていて、とてもしっくりとします。

莉子

デザインも……本当に、本当に素敵で……。

莉子

……本当に……、……。

莉子

ありがとうございます、優紀さん! すごく、嬉しいです……!!

胸がつまって、とても感じたままを伝えられたとは思えない。

だけど、彼は心底嬉しそうに顔を綻ばせた。

優紀

ああ……! よかったです!

優紀

とてもお似合いですよ。莉子さん。

じわじわと喜びが込み上げる。

これから、この子と私は時を刻んでいくんだ。
陽の光に当てるように腕をかざして、大事にしよう、そう心の中で誓った。

莉子

(時間が……動いてるって感じがする)

このお店に初めて来た時は、まるで私の時計だけ止まっているようだったのに。

莉子

(それが……ゆっくりと動き出して、今ではこの時計みたいにしっかりと歯車を回している)

莉子

(ちゃんと……動いてる)

いっぱいになった胸を押さえると、キラッとケースの縁が光った気がした。

莉子

ん……あれ? これって……。

見ると、そこに小さく何かの文字が刻まれている。

莉子

これ……フランス語?

優紀

……ああ。気がつかれました?

莉子

これは……優紀さんが?

優紀

こうして作った作品には、メッセージを刻ませてもらっているんです。

莉子

(わあ……。いったい、なんて書いてあるんだろう?)

莉子

(ええっと……、c’est……)

莉子

(『c’est pourvivre!』……?)

莉子

(うーん……有名な単語とかなら、もうちょっとわかるんだけどな)

なんとなくは読めても、やっぱり意味まではわからない。

優紀

これはですね、ある文章の一部なんですが――

莉子

あ……ま、待ってください!

優紀

え?

莉子

えっと……その、今は聞かないでいてもいいですか?

莉子

いただいたメッセージを、ちゃんと自分の力で調べてみたいんです。せっかくですから。

優紀

……ええ。ありがとうございます、莉子さん。

莉子

いえ、こちらこそ……!

莉子

(よし! 帰りにさっそくフランス語の辞書を買っていこう)

もうすぐ、お店のサイトも完成する。
同時に進めていた英語版も、そう差がなく出来上がると思う。そうしたら……。

莉子

これを機に、私、フランス語も勉強してみようと思います。

優紀

……フランス語も?

莉子

『青い鳥』も原書で見てみたいですし。

莉子

それで……優紀さん。このお店のフランス語版のホームページも作ってみませんか。

優紀

えっ……。

莉子

優紀さんのルーツは日本だけじゃなくて、フランスもですよね?

莉子

そんな優紀さんのルーツである国にも、優紀さんの作った時計を紹介できたらとても素敵だなって思ったんです。

優紀

……えっと……そ、そのお気持ちはすごく嬉しいのですが。

優紀

ですが莉子さんは、フランス語は専門ではないのですよね?

優紀

ちょっとした一文を訳すだけならともかく、もしこの店のサイトのためだけに勉強されるおつもりなのでしたら、そこまでのご負担は……。

莉子

あ……いえ、違うんです!

莉子

もちろん、このお店の時計の良さを多くの人達に知ってほしいと思ってるのはもちろんなんですけど、それ以上に私自身が、違う国の言葉を学ぶのが好きなんです。

莉子

英語を使った仕事に転職したいって、優紀さんにもたまにお話してたと思いますけど――

莉子

それは『英語の成績が良かったから』とか、『何となく自分に向いてたから』じゃなくって、誰かが懸命に生み出した素敵なものや思いを、国境や言葉の壁を越えて伝えたいって思うんです。

莉子

……ずっとそう願ってた自分を、やっと最近、思い出せたんです。

優紀

…………。

莉子

だから、優紀さんのお店のサイトを作っている時、私はすごく楽しかったんですよ。

莉子

ここの時計の良さを、今よりもっと多くの人に届けられるんだって。

莉子

だから……フランス語版ができたら、他の国のホームページもいっぱい作ってみます?

莉子

でも、そうしたら、あちこちの国から注文が殺到するかもしれませんね。

夢が膨らんでついそんな冗談を言うと、優紀さんはなぜだか真剣な面持ちで口元に手をやった。

……そして、深刻そうにぽつりとこぼす。

優紀

万一そうなったら……ひとりではとても大変ですね……。

莉子

え……?

優紀

いまのブログだって、すごく好評をいただいてるのに……。もし、色んな国のサイトまで作ったら……。

莉子

ゆ……優紀さん?

優紀

莉子さん……!

莉子

……!

優紀

もし、この店が忙しくなったら……その時はうちへ転職していただけませんか!?

莉子

え……。

莉子

(――えっ!?)

優紀

その、莉子さんが望むようなお給料は、出せないかもしれませんが。

莉子

(ちょっ、優紀さん、さっきの本気にしちゃったの……!?)

優紀

私は病気のことを除いても、集中するとお客さまが来たことに気付けない時がありますし。

莉子

(……本気に……)

優紀

前にも言いましたように、私は英語はそれほど得意じゃなくて……。

優紀

この街は外国のお客さまもとても多いでしょう?

優紀

だから、莉子さんみたいに英語ができる方がいると、とても助かるんです……!

莉子

(…………)

優紀

あっ……! もちろん、あれですよ!

優紀

仕事が助かるからとか、そういうのだけじゃなくて、莉子さんが一緒にいて、すごくほっとする人だっていうのが、一番なんですけど――

莉子

…………。

莉子

……ふっ……!

優紀

……!!

優紀

えっ……莉子さん?

真面目に答える彼がおかしい。
笑っちゃいけないと思って顔を隠したけど、それはどんどん込み上げていった。

優紀

す、すみません! やっぱり、失礼だったり非常識なお願いだったでしょうか!?

莉子

(あはは……!)

莉子

(もう、だめ……!)

勘違いを進める彼におかしさが募って、つい悪戯っぽい気持ちが芽生えてしまう。

莉子

……そうですねえ……。

莉子

どうしましょうか。

笑ってからかう私に対して、「莉子さん……!」と優紀さんの弱りきった声が響く。

きらりと腕の青い鳥が光った。
優しい、優しい時を刻む私の時計。

その鳥のように、私もどこまでも飛んでいける気がした――

それから――
数年の時が経ったある日。

【==== 洋館長屋店内 ====】

莉子

……ううーん……。

莉子

やっぱり優紀さんの味とどこか違うんだよね。

いつもの時計店で。
自分が淹れたコーヒーの味を見ながら、私は眉を寄せていた。

優紀さんは奥の部屋で、新規のお客さまの時計を作っている最中だ。

莉子

美味しく淹れられるようになったら、もっと優紀さんの作業の邪魔をしないですむのにな。

莉子

私のコーヒーだと、完全に器に負けちゃってるもんね……。

目の前のお姫さまのカップが誇らしげに輝いている。

そこから漂う香りを追うように、改めて店内……今は職場となったこの場所を見回した。
今日も変わらず、時計が穏やかな針の音を刻んでいる。

莉子

(……あの時の冗談が、本当になるなんてね)

あの後――
しばらくして、私は円満に会社を辞してから、本当に優紀さんのお店でお世話になることにした。

彼が作業へ集中できるように、経理や事務処理、電話やメールなどの対応をするかたわら、私も在宅で翻訳の仕事を始められるようにと、準備と勉強をさせてもらっているのだ。

もちろん、お店のサイトやブログを今でも続けているため、遠方に住んでいるお客さまや、外国からの問い合わせと注文も増えてきて、お店はとても順調な感じだ。

莉子

うん。やらなきゃいけない仕事も今日は片付いたし。

莉子

お客さまが来るまで、少し休憩させてもらおうっと。

コーヒーをかたわらに、読み返そうとカウンターに置いておいた本を取る。
英語で書かれたタイトルに、ふっと目もとを緩めた。

そう……これは、あの『青い鳥』の続編だった。
腕時計のモチーフを『青い鳥』に決めた後、興味を持って色々と調べているうちに、この本の存在を知ったのだ。

日本語訳版は存在するものの有名ではないため、お店で見かけることはほとんどなく、フランス語と英語の本はいくつか見つけられたので、そちらを手に入れることにしたのだ。

優紀さんも『続編がある』というのは何となく知っていたものの読んだことはなかったそうで、それなら優紀さんにも貸せるように……と、お互いにある程度読める英語版を購入していた。

莉子

(久しぶりに家で見つけて、持ってきたんだけど……懐かしいな)

本の内容は、チルチルが『青い鳥』を探す旅に出てから7年後――
彼の元を再び仙女が訪れて、チルチルの花嫁を探す旅に出る、というお話だった。

仙女は、チルチルの知っている少女達を花嫁候補として呼び出すのだけど、その中にひとりだけ、チルチルの記憶にない少女がいる。
全身を白いベールで包み、言葉も発さない少女……。

彼女が誰だったかをチルチルはどうしても思い出せないでいたけど、最後には、その少女こそが7年前、『青い鳥』をあげた隣の家の女の子で、運命の人だと気付くのだ。

莉子

(……初めて読んだ時は、優紀さんとこの本について語り合ったな)

莉子

(だって、最初からすごく驚かされて――)

【==== 洋館長屋店内 ====】

莉子

……最初に思ったこと。多分、優紀さんも一緒だと思うんですけど……。

莉子

逃げていってしまった青い鳥が、最初からチルチルの部屋にいるの、びっくりしませんでした?

優紀

しました、しました……! あれ、どういう意味なんでしょうね?

優紀

前作では、あんなに一生懸命探して手に入らなかったのに……。

莉子

……そうですよね。きっと、意味があるはずですよね。

莉子

あの、読んでいて私が何となく思ったことなんですけど、仙女ベリリュンヌが最初に出てきた時、チルチルに「あなたは私が誰だか本当にはわかっていないし、何も覚えていない」と言ってたじゃないですか。

莉子

あと、数年前に引っ越したとはいえ、隣の家の女の子のことを忘れてしまっていたり。

優紀

ええ、そうでしたよね。

莉子

だから、成長したチルチルには、また『本当のこと』が見えづらくなっていたのかもしれないのかなって。

莉子

それで……観客には青く見える鳥もチルチルからしたら青く見えてなかったり、もしくは、そこに本当に鳥がいるわけじゃなくて、『チルチルには見えない』もしくは『忘れている幸福』って象徴で、鳥籠にいるのかもしれないのかと……。

優紀

へえ……なるほど。そういう解釈もできそうだなぁ。

莉子

もちろんちゃんと調べたり考察したわけじゃないので、全然見当違いかもしれないですけどね。

莉子

でも……。

莉子

……青い鳥はチルチルのそばにちゃんといた。

莉子

青い鳥は必ず逃げてしまう……捕まえられない……そんな感じではなくて、よかったなあって思います。

優紀

…………。……そうですよね。

優紀

……でも、私は好きじゃない部分もありました。

莉子

え……?

優紀

ほら、仙女の台詞です。

優紀

「人はただ一つの愛しか持てない」

優紀

「それを失ってしまった人は、死ぬまでみじめにさ迷う」……そういう台詞があったでしょう?

優紀

私は、そんなことはないと思うんです。

優紀

生きていれば……悲しいこともあって、大切な人を亡くしてしまったり、想い合っているのに、やむを得ない事情で別れなければいけない人だっています。

莉子

(……あ……)

優紀

……そういう人たちが、二度と新しい愛を掴めないとか、もしくは別れてしまった人は、真実の愛の相手ではなかったとか、そういう考え方はしたくないんです。

優紀

人は時と共に変わっていくものですから……。

優紀

その時々に相応しい幸せや、愛があっていいと、私は思うんです。

莉子

優紀さん……。

莉子

…………ありがとうございます……。

知らず声に熱がこもっていた。
そんな私に、彼は照れくさそうに首の裏を撫でた。

優紀

ま、まあ、これはお話ですし。

優紀

愛情は大事なものだから、見かけや利益などで適当に選んだりせず、心から愛することのできる相手をしっかりと選びなさい……っていう意味なのはわかっているんですけどね。

莉子

ふふ……そうですね。

頬を染めながら話す彼にくすくすと私が息をこぼすと、優紀さんはさらに明るく続ける。

優紀

で、でも、愛が大切なのはわかりますけど、他にも酷いんですよ。

莉子

他に……? 他にも何かありましたっけ?

優紀

ええ。ほら、これ。

優紀

「あなたの年頃の男の子なら、女の子を愛する以外のことは何も考えなくて当然だ」

優紀

「もしそうでなければ、その子はノロマで、マヌケで、価値のない人間だ」……って。

優紀

私は、恋愛よりも時計のことに夢中になってここまできましたからね。

優紀

あはは……ものすごく馬鹿にされてしまいました。

【==== 洋館長屋店内 ====】

莉子

(……私は、そんな優紀さんはすごく立派で素敵な人だと思うけどな)

あたたかい気持ちで本を撫でると、チリンとドアベルの音が店に響いた。
見ると、感じのいい壮年の男性と、奥さんらしい外国人の女性が笑顔でやってきたところだった。

莉子

いらっしゃいませ。こんにちは。

年配の男性

……やあ、君が新しく入った女の子だね。評判は聞いているよ。

外国人の奥さま

サイトも一緒に作ったとか。とても楽しく見させてもらっているわ。

莉子

あ、ありがとうございます! 元町です。よろしくおねがいします。

莉子

(……って、『評判は聞いてる』? 何か私、そういうお客さんに噂されるようなことしたかな?)

年配の男性

今日は時計のメンテナンスを頼みたいのだけど。

外国人の奥さま

それと……コーヒーもお願いしてもいいかしら?

莉子

あっ、はい……! もちろんです。そちらのソファにおかけになって、少々お待ちくださいね。

年配の男性

……優紀から聞いていた通り、良さそうなお嬢さんだね。

外国人の奥さま

ええ、本当に。

【==== 洋館長屋作業部屋 ====】

私は『青い鳥』の続編を手にしたまま、奥の作業部屋へ向かった。 優紀さんを呼ぼうとすると……

優紀

あ……莉子さん!

優紀

見てください! これ、どうですか?

キラキラした笑顔で彼の方が私を出迎える。

莉子

わあ……! すごく綺麗なケースですね。

優紀

彫金部分がようやくできあがったんです。

莉子

(いつもながら、すごく手が込んでるなあ……)

変わらない彼の仕事の丁寧さに、感嘆の息がこぼれる。

莉子

とっても素敵です。きっと注文された方も喜んでくれると思いますよ。

莉子

(それに……優紀さんの作る時計は、いつも心がこもっているのがわかるから……)

莉子

(きっとこれを注文したお客さんも、私のように長く大切にしてくれるはず)

『青い鳥』の続編を無意識に抱きしめながら、私は彼と視線を重ねた。

莉子

お疲れさまです。お客さまがいらしてますから、お店の方、お願いできますか?

優紀

ええ、すぐに。

道具を置いて、優紀さんが立ち上がる。

優紀

行きましょうか、莉子さん。

莉子

はい!

優しい時が流れる、たくさんの時計に囲まれたあの空間。

新しい時をまた刻むべく、温かな想いが詰まったあの素敵な場所へと……私たちは一緒に歩いていったのだった。