莉子の部屋
時計のアラームが鳴って、瞼を上げる。
のろのろと起き上がって……
私はいつもと変わりない毎日を、いつもと変わりなく始めた。
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北野坂
え~、莉子さん本当に来ないんですか。
つまんないなあ。莉子さんと話したいこと、いっぱいあったのに。
会社からの帰り道。
飲み屋へと誘う同僚に向け、私は顔の前で手を合わせる。
本当にごめんね! 私も行きたいけど、今日はちょっと用事があってさ。
その代わり、今度のお昼は美味しいランチに出て、いっぱい話そう!
うう~ん。約束ですよ。
うん、うん。約束!
ま、用事があるなら仕方ないよな。
元町。その美味しいランチ、俺らも連れて行けよ。
はい、是非。皆さんが気に入るお店、探しておきます。
今日は楽しんできてくださいね。
街の夜景へと消えていくみんなを笑顔で見届けてから、振っていた手を下げた。
遅い時間じゃないのに、タイミングのせいか、私の他に人通りはない。
――周りに誰もいない事実が、ふと私から笑う力を奪っていった。
母から頼まれた買い物が生菓子で日持ちせず、それにお店に予約もしてしまっていたから。
だから、ずらせない用事が入っていたというのは嘘じゃなかった。
(嘘じゃない……けど)
でも……少しだけ、賑やかなところを避けられて安堵している自分がいる。
(ああ……よくないな)
誰かといると、何かを楽しむことも、普通に笑っていることもできるのに、ひとりになると、ゆっくりと黒い沁みが広がっていくように、心が沈んでいってしまう。
……えっと、確かパラスティン邸だっけ!
暗い気持ちを振り払うように、わざと明るい声で顔を上げた。
目的地は、お菓子のテイクアウトもしている評判のレストランだ。
母から教えてもらった道のりを思い出しながら、大通りを進んでいく。
(わ……やっぱり観光名所だけあって、綺麗な街並みだなあ)
私の仕事場は三宮の方にあって、家も2駅離れた場所にあるせいか、北野町の方にはほとんど来なかった。
洋館が立ち並ぶこの付近を改めて眺め、異国に来たかのような新鮮さを感じる。
窓から漏れる灯りが幻想的で、より一層、情緒のある風景が広がっていた。
(夜になると、また違った雰囲気になるんだ……)
……ん? あれ……。
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洋館長屋
周囲の灯りに白い壁を浮かび上がらせた、清楚な造りの洋館。
時計がモチーフとなった、少し古びてはいるけど趣のある看板がかかったお店。
その店頭にあるガラスケースの中へ飾られた置時計に、私は吸い込まれるように足を止めた。
(……小鳥の時計だ)
私は特別に鳥が好きだということはなかったけど――
でも、天然の木を使ったであろう温かい感じのする時計の文字盤に、その周りを遊ぶきらきらと可愛らしいガラス製の小鳥たち……。
なんだかすごく心が惹かれた。
(あ、針が動くのに合わせて、小鳥も動くんだ)
(わあ、さっきのと違う小鳥も出てきた。かわいいな)
時と共に変化を見せる姿にも、つい目が引きつけられる。
こんなにも何かに気持ちが動かされるのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。
まだ営業中なのかな?
営業時間の表示でもないかと、時計から離した視線を巡らせる。
お店は……二世帯住宅のような感じと言えばいいのだろうか。
左右に同じような形の建物があり、それが真ん中で繋がっているけれど、玄関は2つの建物それぞれについていた。
そして、右側の一棟のドアに『外出中。すぐに戻ります』と張り紙がされている。
ドアのガラス窓越しには、壁いっぱいに掛けられた時計が見えていた。
時計屋さん……なんだよね。『すぐ戻る』って、本当にすぐなのかな?
ちらっと先ほどの紙に目を戻すと、隣にもう1枚、張り紙があるのに気付く。
なになに……。修理承ります。
どんな時計も……一度、ご相談……ください……。
それはお客さんに向けたよくある掲示内容だったけど、音にした声がだんだんと色を失くしていくのを自覚した。
…………どんな時計も……。
部屋の引き出しに入れたままのあの時計……
4年前に亡くなった恋人――涼太の腕時計を思い浮かべながら。
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中学校教室
ねえ、元町さんって、もしかして数学が苦手?
歓喜や落胆の声が飛び交う教室で。
返ってきたテスト用紙を見て顔をしかめていた中学生の私に、
えっ? ……う、うん。ちょっと……いや、かなり……苦手だったりする。
あはは。でも、英語は得意だよね?
俺は結構どの教科も好きなんだけど、英語だけは苦手なんだ。
そこで提案なんだけど……よかったら、俺に英語教えてくれない?
そうしたら、代わりに俺が元町さんの数学の点をどうにかこうにかするからさ。
……いいの? すごく助かるけど、私の方はあんまり人に教えるの得意じゃないかも……。
そう? 元町さん、たまに友達に聞かれて説明したりとかしてるじゃん。
そういう時、わかりやすく教えてあげてるなーって思ってたんだ。
そ、そうかな……?
うん。……実は親に小遣い減らされそうで、結構マジなんだよね。
このままじゃ新しいハードが買えないんだよ。だから元町さん、この通り! 隣の席のよしみで……!!
……ふっ……、あはは、そんなに真剣に頼まなくても。
いいよ、じゃあお互い助け合おうってことで……。橘くんって、意外と面白い人だったんだね。
面白いって……ひどいなあ。俺バイト禁止されてるから、ほんとに死活問題なんだってば。
ってなわけで、ぜひよろしく頼むよ、元町さん。
なんだか嬉しそうにそう言う彼が、妙に胸の中に残ったのを今でも覚えている。
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公園
橘くんから、涼太くん、涼太、と呼び名を変えるのにそんなに時間はかからなかった。
実はあの頃、ずっと話しかけるきっかけを待ってたんだ。
恋人へと関係が変わった日に、彼は気恥ずかしそうに、あの日声をかけた本当の理由を教えてくれた。
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高校校門
莉子、莉子! 早く!
ま、待って、涼太。もう足が……。
あはは、こんな日にまで二度寝できるなんて、莉子は本当、大物だよな!
だって、昨日緊張して寝られなかったんだもん。
テストの点をどうにかするという涼太の言葉に嘘はなくて、彼のお陰で私は彼と同じ高校へと通うことができた。
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莉子の部屋
『莉子ー。今日は待ちに待った海へ行く日だぞ~』
ううん……もうちょっとだけ、寝かせて……。
『あっ! こら、寝るな、莉子! 俺との楽しいデートが待ってるのに!』
朝が得意な彼が電話越しに私を起こす。
気がついた時には、そんなことが毎日の習慣になっていた。
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カフェ
く……っ、くくくっ……。
…………莉子、笑い過ぎ。
だ……だって、せっかく海に来たのに、上着きせてすぐに帰るって……。
なんでって、思ったら……。ふふ……。
…………。
……だってさあ!
あんな水着、かわいすぎじゃん。反則じゃん。他のヤツに見せたくないじゃん。
あははっ!
幸せだった。
私は涼太が好きで。涼太も私を好きで。
彼といる毎日はきらきらと輝いていて、胸の奥から満ち足りた想いを感じていた。
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高校校門
おー、莉子と入学式でこの桜並木を走ったのがつい最近のようだけど……。
もう、卒業式なんだねえ……。
高校を卒業して。
彼は建築を学ぶ大学へ。私は英語に特化した短大を選んで、進む道は別々になってしまった。
それでも、彼と過ごす楽しい日々は変わることはなかった。
そして、お互いが二十歳となった成人式のあの日――
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北野坂
じゃあ、ふたりとも気をつけてな。
ああ、久しぶりに会えて楽しかった。また集まろうな。
近いうちに、連絡するね!
久々に集まった中学の友人たちと別れて、私達は家へと向かう。
あー、なんかみんな大人になったなあって感じるよな。
ふふ、しょっちゅう会っているとわからないけど、久しぶりに会うと強く感じるよね。
私も涼太のことは、いつも会ってるから変わったって思うことはないもの。
…………。
……じゃあ、俺は莉子のことをこの先ずっと、変わったって思うことはないんだろうな。
え……。
涼太、それって……。
あっ! ほら。家についた。遅くなっておばさんも心配してるだろうから、早く行きな。
う、うん。だけど、涼太。さっきの……。
ほら、ほら! 寒いし、風邪引いたら大変だから早く中に入って。
…………。
あはは。口、尖らせすぎ。
また、明日。明日はふたりでゆっくり過ごせるから。
……うん。
またな。おやすみ。
おやすみ。気をつけてね!
あははと笑って、涼太が顔をくしゃっとする。
そんな毎日が、ずっと続くんだと思っていた。
ずっと変わらないんだと思っていた。
けれど、月明かりの下で笑顔で手を振る涼太。
それが……私が見た彼の最後の姿だった。
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【==== 浄恋寺お堂 ====】
なんだよ……。また集まろうって……。こんな再会ないよ。
交通事故って……、そんな……!
あの日、涼太が彼の家に辿り着くことはなかった。
私を送って家へと帰る途中、彼は帰らぬ人になった。
莉子ちゃん……これ。
涼太がね、すごく気に入ったんだって、手に入れたものなの。よかったらあなたに持っていてほしくて……。
渡された物を手に取る。
小さな箱を開けると、見覚えのない腕時計が入っていた。
男性物らしい作りだから、涼太が自分用に買ったものだとは思うけど……。
それと……これが一緒にあったの。
あなた宛てのものだから。
それは、メッセージカード。
確かに涼太の手で、私に書かれたものだった。
『莉子へ もうすぐ社会人。寝坊するなよー 早く起きろ―』
…………。
私……。
私、知らないです……。この時計をつけた涼太を……。
カードも……。なんで……。
っ、なんでっ……!
教えてよ!! 涼太っ……!
あああああっ……。
莉子ちゃん……っ!
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洋館長屋
……っ……!
(涼太……、涼太っ……!)
込み上げてくる思い出に息ができない。
向かい合う勇気がなくて、奥へ奥へ押しやっていた過去の出来事。
だけど、隠しきることはできなくて、ひとりになるとすぐに沈んでしまう心。
――っ、は……っ。
(涼太……どうして……)
立っていることもできなくて、その場にうずくまった。
その時――
大丈夫ですか?
柔らかな声が落ちた。
……あ……。
どうかされましたか? お体の具合でも……?
どこか透明感のある優しげな男性が、私を心配そうに覗き込んでいる。
(……誰……?)
なぜだろう。彼の声を耳にして、顔を上げた瞬間……
止まった時計に積もる埃をそっと払うような、そんな優しい風が、どこかで吹いた気がした――