洋館長屋
~1話~

莉子の部屋

時計のアラームが鳴って、瞼を上げる。

のろのろと起き上がって……
私はいつもと変わりない毎日を、いつもと変わりなく始めた。

北野坂

会社の女の子

え~、莉子さん本当に来ないんですか。

会社の女の子

つまんないなあ。莉子さんと話したいこと、いっぱいあったのに。

会社からの帰り道。
飲み屋へと誘う同僚に向け、私は顔の前で手を合わせる。

莉子

本当にごめんね! 私も行きたいけど、今日はちょっと用事があってさ。

莉子

その代わり、今度のお昼は美味しいランチに出て、いっぱい話そう!

会社の女の子

うう~ん。約束ですよ。

莉子

うん、うん。約束!

会社の男性

ま、用事があるなら仕方ないよな。

会社の男性

元町。その美味しいランチ、俺らも連れて行けよ。

莉子

はい、是非。皆さんが気に入るお店、探しておきます。

莉子

今日は楽しんできてくださいね。

街の夜景へと消えていくみんなを笑顔で見届けてから、振っていた手を下げた。
遅い時間じゃないのに、タイミングのせいか、私の他に人通りはない。

――周りに誰もいない事実が、ふと私から笑う力を奪っていった。
母から頼まれた買い物が生菓子で日持ちせず、それにお店に予約もしてしまっていたから。

だから、ずらせない用事が入っていたというのは嘘じゃなかった。

莉子

(嘘じゃない……けど)

でも……少しだけ、賑やかなところを避けられて安堵している自分がいる。

莉子

(ああ……よくないな)

誰かといると、何かを楽しむことも、普通に笑っていることもできるのに、ひとりになると、ゆっくりと黒い沁みが広がっていくように、心が沈んでいってしまう。

莉子

……えっと、確かパラスティン邸だっけ!

暗い気持ちを振り払うように、わざと明るい声で顔を上げた。

目的地は、お菓子のテイクアウトもしている評判のレストランだ。
母から教えてもらった道のりを思い出しながら、大通りを進んでいく。

莉子

(わ……やっぱり観光名所だけあって、綺麗な街並みだなあ)

私の仕事場は三宮の方にあって、家も2駅離れた場所にあるせいか、北野町の方にはほとんど来なかった。
洋館が立ち並ぶこの付近を改めて眺め、異国に来たかのような新鮮さを感じる。

窓から漏れる灯りが幻想的で、より一層、情緒のある風景が広がっていた。

莉子

(夜になると、また違った雰囲気になるんだ……)

莉子

……ん? あれ……。

洋館長屋

周囲の灯りに白い壁を浮かび上がらせた、清楚な造りの洋館。
時計がモチーフとなった、少し古びてはいるけど趣のある看板がかかったお店。

その店頭にあるガラスケースの中へ飾られた置時計に、私は吸い込まれるように足を止めた。

莉子

(……小鳥の時計だ)

私は特別に鳥が好きだということはなかったけど――

でも、天然の木を使ったであろう温かい感じのする時計の文字盤に、その周りを遊ぶきらきらと可愛らしいガラス製の小鳥たち……。

なんだかすごく心が惹かれた。

莉子

(あ、針が動くのに合わせて、小鳥も動くんだ)

莉子

(わあ、さっきのと違う小鳥も出てきた。かわいいな)

時と共に変化を見せる姿にも、つい目が引きつけられる。
こんなにも何かに気持ちが動かされるのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。

莉子

まだ営業中なのかな?

営業時間の表示でもないかと、時計から離した視線を巡らせる。

お店は……二世帯住宅のような感じと言えばいいのだろうか。
左右に同じような形の建物があり、それが真ん中で繋がっているけれど、玄関は2つの建物それぞれについていた。

そして、右側の一棟のドアに『外出中。すぐに戻ります』と張り紙がされている。
ドアのガラス窓越しには、壁いっぱいに掛けられた時計が見えていた。

莉子

時計屋さん……なんだよね。『すぐ戻る』って、本当にすぐなのかな?

ちらっと先ほどの紙に目を戻すと、隣にもう1枚、張り紙があるのに気付く。

莉子

なになに……。修理承ります。

莉子

どんな時計も……一度、ご相談……ください……。

それはお客さんに向けたよくある掲示内容だったけど、音にした声がだんだんと色を失くしていくのを自覚した。

莉子

…………どんな時計も……。

部屋の引き出しに入れたままのあの時計……

4年前に亡くなった恋人――涼太の腕時計を思い浮かべながら。

中学校教室

涼太

ねえ、元町さんって、もしかして数学が苦手?

歓喜や落胆の声が飛び交う教室で。
返ってきたテスト用紙を見て顔をしかめていた中学生の私に、

莉子

えっ? ……う、うん。ちょっと……いや、かなり……苦手だったりする。

涼太

あはは。でも、英語は得意だよね?

涼太

俺は結構どの教科も好きなんだけど、英語だけは苦手なんだ。

涼太

そこで提案なんだけど……よかったら、俺に英語教えてくれない?

涼太

そうしたら、代わりに俺が元町さんの数学の点をどうにかこうにかするからさ。

莉子

……いいの? すごく助かるけど、私の方はあんまり人に教えるの得意じゃないかも……。

涼太

そう? 元町さん、たまに友達に聞かれて説明したりとかしてるじゃん。

涼太

そういう時、わかりやすく教えてあげてるなーって思ってたんだ。

莉子

そ、そうかな……?

涼太

うん。……実は親に小遣い減らされそうで、結構マジなんだよね。

涼太

このままじゃ新しいハードが買えないんだよ。だから元町さん、この通り! 隣の席のよしみで……!!

莉子

……ふっ……、あはは、そんなに真剣に頼まなくても。

莉子

いいよ、じゃあお互い助け合おうってことで……。橘くんって、意外と面白い人だったんだね。

涼太

面白いって……ひどいなあ。俺バイト禁止されてるから、ほんとに死活問題なんだってば。

涼太

ってなわけで、ぜひよろしく頼むよ、元町さん。

なんだか嬉しそうにそう言う彼が、妙に胸の中に残ったのを今でも覚えている。

公園

橘くんから、涼太くん、涼太、と呼び名を変えるのにそんなに時間はかからなかった。

涼太

実はあの頃、ずっと話しかけるきっかけを待ってたんだ。

恋人へと関係が変わった日に、彼は気恥ずかしそうに、あの日声をかけた本当の理由を教えてくれた。

高校校門

涼太

莉子、莉子! 早く!

莉子

ま、待って、涼太。もう足が……。

涼太

あはは、こんな日にまで二度寝できるなんて、莉子は本当、大物だよな!

莉子

だって、昨日緊張して寝られなかったんだもん。

テストの点をどうにかするという涼太の言葉に嘘はなくて、彼のお陰で私は彼と同じ高校へと通うことができた。

莉子の部屋

涼太

『莉子ー。今日は待ちに待った海へ行く日だぞ~』

莉子

ううん……もうちょっとだけ、寝かせて……。

涼太

『あっ! こら、寝るな、莉子! 俺との楽しいデートが待ってるのに!』

朝が得意な彼が電話越しに私を起こす。
気がついた時には、そんなことが毎日の習慣になっていた。

カフェ

莉子

く……っ、くくくっ……。

涼太

…………莉子、笑い過ぎ。

莉子

だ……だって、せっかく海に来たのに、上着きせてすぐに帰るって……。

莉子

なんでって、思ったら……。ふふ……。

涼太

…………。

涼太

……だってさあ!

涼太

あんな水着、かわいすぎじゃん。反則じゃん。他のヤツに見せたくないじゃん。

莉子

あははっ!

幸せだった。

私は涼太が好きで。涼太も私を好きで。
彼といる毎日はきらきらと輝いていて、胸の奥から満ち足りた想いを感じていた。

高校校門

涼太

おー、莉子と入学式でこの桜並木を走ったのがつい最近のようだけど……。

莉子

もう、卒業式なんだねえ……。

高校を卒業して。
彼は建築を学ぶ大学へ。私は英語に特化した短大を選んで、進む道は別々になってしまった。

それでも、彼と過ごす楽しい日々は変わることはなかった。

そして、お互いが二十歳となった成人式のあの日――

北野坂

同級生

じゃあ、ふたりとも気をつけてな。

涼太

ああ、久しぶりに会えて楽しかった。また集まろうな。

莉子

近いうちに、連絡するね!

久々に集まった中学の友人たちと別れて、私達は家へと向かう。

涼太

あー、なんかみんな大人になったなあって感じるよな。

莉子

ふふ、しょっちゅう会っているとわからないけど、久しぶりに会うと強く感じるよね。

莉子

私も涼太のことは、いつも会ってるから変わったって思うことはないもの。

涼太

…………。

涼太

……じゃあ、俺は莉子のことをこの先ずっと、変わったって思うことはないんだろうな。

莉子

え……。

莉子

涼太、それって……。

涼太

あっ! ほら。家についた。遅くなっておばさんも心配してるだろうから、早く行きな。

莉子

う、うん。だけど、涼太。さっきの……。

涼太

ほら、ほら! 寒いし、風邪引いたら大変だから早く中に入って。

莉子

…………。

涼太

あはは。口、尖らせすぎ。

涼太

また、明日。明日はふたりでゆっくり過ごせるから。

莉子

……うん。

涼太

またな。おやすみ。

莉子

おやすみ。気をつけてね!

あははと笑って、涼太が顔をくしゃっとする。
そんな毎日が、ずっと続くんだと思っていた。

ずっと変わらないんだと思っていた。

けれど、月明かりの下で笑顔で手を振る涼太。
それが……私が見た彼の最後の姿だった。

【==== 浄恋寺お堂 ====】

同級生

なんだよ……。また集まろうって……。こんな再会ないよ。

同級生

交通事故って……、そんな……!

あの日、涼太が彼の家に辿り着くことはなかった。
私を送って家へと帰る途中、彼は帰らぬ人になった。

涼太の母

莉子ちゃん……これ。

涼太の母

涼太がね、すごく気に入ったんだって、手に入れたものなの。よかったらあなたに持っていてほしくて……。

渡された物を手に取る。

小さな箱を開けると、見覚えのない腕時計が入っていた。
男性物らしい作りだから、涼太が自分用に買ったものだとは思うけど……。

涼太の母

それと……これが一緒にあったの。

涼太の母

あなた宛てのものだから。

それは、メッセージカード。
確かに涼太の手で、私に書かれたものだった。

『莉子へ もうすぐ社会人。寝坊するなよー 早く起きろ―』

莉子

…………。

莉子

私……。

莉子

私、知らないです……。この時計をつけた涼太を……。

莉子

カードも……。なんで……。

莉子

っ、なんでっ……!

莉子

教えてよ!! 涼太っ……!

莉子

あああああっ……。

涼太の母

莉子ちゃん……っ!

洋館長屋

莉子

……っ……!

莉子

(涼太……、涼太っ……!)

込み上げてくる思い出に息ができない。
向かい合う勇気がなくて、奥へ奥へ押しやっていた過去の出来事。

だけど、隠しきることはできなくて、ひとりになるとすぐに沈んでしまう心。

莉子

――っ、は……っ。

莉子

(涼太……どうして……)

立っていることもできなくて、その場にうずくまった。
その時――

???

大丈夫ですか?

柔らかな声が落ちた。

莉子

……あ……。

???

どうかされましたか? お体の具合でも……?

どこか透明感のある優しげな男性が、私を心配そうに覗き込んでいる。

莉子

(……誰……?)

なぜだろう。彼の声を耳にして、顔を上げた瞬間……
止まった時計に積もる埃をそっと払うような、そんな優しい風が、どこかで吹いた気がした――