【==== 洋館長屋店内 ====】
――――優紀さんっ……!!!
優紀さんっ、優紀さんっ! 大丈夫ですか……!?
全身が一瞬で凍りついた。
ただただ、目の前の光景に頭が白くなって……
私は倒れ込むように彼のもとへ膝をついていた。
(意識がない……!)
きゅ……救急車……。
救急車を呼ばなきゃ……。
体を揺り起こしたい衝動をぐっと堪えて、震える指で自身の鞄をたぐり寄せた。
頭を打っているかもしれないんだ。
携帯を探す時間さえも、もどかしくて堪らない。
(優紀さん……どうして……)
(やっぱり何かの病気なの……っ!?)
『莉子――』
(いや……)
『莉子、また明日な』
(いやっ……嫌だ……!)
優紀さん……っ!!!
……ん……。
……っ!!
小さなうめき声に、すがるように顔を上げた。
枕のようにしてる腕の隙間から、彼がゆっくりと瞼を開けるのがわかった。
……あれ……ここは……。
……ぁ……。
え……莉子さん?
瞳を開けた彼がぼんやりと周りを見ている。
それは、どんどんと生気のある瞳に変わって……。
……っ! 莉子さんっ!!
す、すみません、莉子さん、スカートにコーヒーがっ!
それに、カップの破片も……! 怪我とかしてないですか!
優紀さんっ……!!
――っ!!?
私は弾けるように彼の肩をつかんだ。
だ、大丈夫なんですかっ!?
痛いところや、苦しいところはないんですか……!
頭を打ったりしてませんか……!
…………あ……。
いえ……なにも、悪いところは……。
……ほ、ほんとに……?
本当に!?
ぼろっと――涙がこぼれ落ちた。
倒れていた時の彼の生気のなさ。
ぴくりとも動かない体。
だけど、今の彼の体はあたたかくて。
触れた指先から感じる人のぬくもりに、色んなものが決壊する。
よかっ――、よかった……。
生きてるんですね……。
……莉子さん……。
…………。
……すみません。心配をかけてしまったんですね。
それは、心底悔やんでいるような声だったけど、その声の温度にまた雫が落ちる。
いいんですと首を振りながら、私は彼が目を覚ましたことに、心底ほっとしていた――
・
・
・
【==== 洋館長屋店内 ====】
どうぞ。
ことりと、目の前にいつものカップが置かれる。
淹れたてのコーヒーのすっきりとした香りが、部屋中に広がった。
本当にすみませんでした……。
莉子さんにこんな思いをさせてしまうなんて……なんてお詫びをしたらいいのか……。
い、いえ……。その話はもう……。なんでもなかったなら、それでいいんです。
私こそ、みっともない姿を見せてすみませんでした。
――あの後、ぼろぼろと涙をこぼす私を優紀さんは慰めつつ、心配をかけたことを必死に謝ってくれた。
お母さんの服があるからと、コーヒーで汚れた服を着替えさせてくれて、店内をすっかり綺麗にして……。
(それで……今日はもうお店をお休みにして、ゆっくり話をしたいってことになったんだよね……)
だけど、淹れてもらったカップに手を伸ばすことができない。
いつもはここにいると和む心が、さっきからざわついて仕方がなかった。
(さっきは無事がわかってほっとしたけど……)
(何か原因があって倒れたことには変わりないんだもの……)
膝の上でぎゅっと握りしめた手を、不安で見つめてしまう。
…………。
実は……私はある病を抱えているんです。
……!
やっぱり……という思いが広がる。
できれば違っていてほしかったという思いも。
……急に強い眠気に襲われる睡眠障害です。
自分の意思に関係なく、猛烈な睡魔に襲われ、時と場所を選ばずに突発的に眠りこんでしまう病気なんです。
(……突発的にって……)
じゃあ……さっきのは……?
……ええ。
あれは……眠っていただけなんです。
……7歳くらいの頃からでしょうか。こんなふうに突然眠りこんでしまう症状が出始めまして……。
場所も選ばずどこかで眠りふけてしまうものですから、ずいぶんと両親や周りの友人たちに迷惑をかけたと思ってます。
ですから、当時はなるべくひとりにならないようにしたり、何かあっても目立ってすぐに見つけられるようにと、ハーフなのに着物を着たりと、気を遣ってもらいました。
(あ……目立つようにって、それで)
……ただ、大人になってからは、だいぶその症状も軽くなってきていまして、今ではきちんと薬を服用し、昼寝の時間を取れば、日常生活には問題なく過ごすこともできているんです。
それなのに、莉子さんにこんなに心配をかける結果になってしまって……。
い、いいえ! それは本当にいいんです。私に謝る必要なんてどこにも――
……いいえ。
ひとつ息を吐く姿は、自分を責めているようだった。
……今日も、本当だったら昼に休んで、それで問題ないはずだったんです。
それなのに……。
…………。
じゃあ……どうして?
確かに不思議だった。優紀さんは集中しやすい人だけど……
だからこそ、そんな病気を抱えていて、すごく気をつけていたんだと思えるから。
………………。
莉子さんに早くあの時計を見せたかったんです。
あと少しで完成できると思ったら、つい仕上げに熱中し過ぎて、昼寝を忘れてしまって……。
(……!)
そ、それで……最後の仕上げの前にコーヒーを取りに来たんです。
その時に……多分、ここで急に眠気に襲われてしまったのでしょうね……。
さっきの状況を思い浮かべるように、彼がカウンターの先に視線を向けた。
……そう、だったんですか。
最後まで聞いて、ずっと握っていたままだったこぶしを開いた。
全身から力が抜けていく。
…………よかった……。
……え?
亡くなるような病気じゃなかったんですね。よかった……。
……莉子さん……。
涼太の件があって、人を失うことがすごく怖くなっていた。
突然人がいなくなってしまう現実が怖かった。
だから、そうじゃないんだとわかってすごく安心する。
(この前見たお医者さんとも、その睡眠障害のことで診てもらってたとかかな?)
……すみません。本当に、ご心配をおかけしてしまって……。
あっ……! い……いえ、いいんです!
それに命に関わりはなくても、大変なことには変わりはないのに……。
今日の様子を考えると、倒れて怪我をするようなことだってあったんじゃないですか?
その、配慮のないことを言って、ごめんなさい……!
彼がわざわざお店を閉店してまで、休憩を長く取っている意味がわかった。
いつか寝癖を作って出てきたのだって、病気の症状を出さないための対策の結果だったんだ。
(それなのに、のびやかに時間を使っていいな、なんて……なんて呑気なことを思っていたんだろう)
……いいえ。心配してくださったんですよね。ありがとうございます。
でも……確かにそうですね。子供の頃はとても大変だったのをよく覚えています。
意識が急に無くなるのは、すごく怖いことだったのも……。
ふと、彼が睫毛を伏せる。
記憶をたどるように、ぽつりぽつりと、当時の話を私に聞かせてくれた。
数時間……時には一日より長く眠ってしまうこともありました。
目覚めると突然、自分が覚えていたところと、まったく違うところで寝かされているんです。
起きた時間によっては、外の明かりを見ても、今が朝なのか夜なのかもとっさにはわからなかったりして……。
子供の頃の時間って、とても流れるのが早いんですよね。
……でも、みんなと私は過ごしている時間が違って……。
みんなが過ごしている時間の中に、自分だけはいなくて……。
まるで自分だけ置いていかれているような気持ちでした。
寂しげな響きに、唇を噛み締める。
取り残されるような心細さは自分にも覚えがあった。
それが、どれだけ苦しくて、どうにもできない自分がどんなにもどかしいのかも。
(それを……優紀さんはそんな幼い時に経験してたんだ)
……自分が眠っている間も時間は冷たく過ぎているんだって、子供ながらにすごく不安だったんです。……だけど。
ふっと、彼の眼差しがとても愛おしいものを見るものへと変わる。
……そんな時、時計職人の父とガラス工芸家の母が、私のために時計を作ってくれたんです。
それは……売り物にはとてもできない、大変手の込んだものでした。
……莉子さん。
は、はい。
初めて店に来た時に、とても賑やかな文字盤の時計が私の部屋にあると話したのを覚えていますか?
え……、ええ。確か、なにか変わった名前でおっしゃってましたよね?
永久カレンダー……ひとつの文字盤に、年月日、曜日、24時間表示などがされた、機械式ではとても技術の高い時計のことです。
月による日数の違いや、4年に一度のうるう年の調整も自動的にできるんですよ。
そのために4年……物によっては、100年で一周しかしない歯車があるくらいです。
100年……。
自分がいなくても長く使えるようにと、父の持てる限りの技術も、その後、時間をかけて教えてくれました。
……その時計は、それだけでもとても大変な代物なんですが、父はそれに母が作ったガラス工芸品を使って、からくり時計にしてくれたんです。
ガラスの動物達が時間と共に動き、遊んだり眠ったりする……そんな、見ていて楽しい仕掛けがたくさん施されていました。
(…………すごい……)
(優紀さんのお父さまって、そんなすごい時計が作れるんだ)
(……ううん)
作れるからじゃない。きっと、彼のために……。彼のためにだから作り上げられたんだ。
多分、優紀さんのお母さまが作った工芸品も、同じように強い思いが込められたものなのだろう。
……それのおかげで、少し眠ることが怖くなくなったんです。
目が覚めれば、最初に見る時計が今がいつなのかちゃんと教えてくれる。
美しいガラスたちが、かわいらしい動きで迎えてくれる。
なにより、両親の愛情を強く感じることができたから。
ゆっくりと閉じた瞼の裏で、彼がその時計を思い描いているのがわかった。
彼がそれをどれだけ大事にしていて、ご両親に感謝しているのかも。
それで思ったんです。
時計はいつも人のそばにあって、何度も何度も目に触れるものだって。
一緒に人生を歩んでいると言ってもいいくらいだって。
そんな時計だからこそ……使う人にぴったりと合ったものを作りたい。
ただ時間を示すだけじゃなくて、その人と一緒に成長して、進んでいくような……。
時計を見る時に、歩んできた道のりや、自分が変わっていけることを愛おしく思えるような……。
そんな時計を作りたいって。
……優紀さん……。
だからだったんだ。彼の作る時計がとてもあたたかく思えたのは。
ここで流れる時間が、寄りそってくれるように感じ取れたのは。
(きっと、そんな思いを込めて優紀さんが時計を作っていたから……)
(そんな素敵な思いで……)
じんと、胸を震わせていると、優紀さんが「あ……」と少し顔を赤くした。
すみません……。自分の話なんか長々としてしまって。
ここまでお話しするつもりはなかったんですが、つい……。
……いいえ。
聞かせてもらえて、私は嬉しかったです。
つらい記憶も……時計への思いも……。
話してくれて、ありがとうございます……! 優紀さん。
莉子さん……。
彼が照れた笑みを広げる。そして……
……あ。
そ、そうだ。それより、莉子さん! 腕時計です。
え……。
できあがったんです!
莉子さんの腕時計ができたんですよ……!
えっ……!
で、でも、さっき最後の仕上げの前に眠って倒れてしまったって……。
ええ。終わって、どんな箱に収めようか悩んでいたところだったんです。
……!!
いま持ってきますから、待っていてくださいね。
嬉々とした声で告げ、優紀さんはすぐに奥へと入っていった。
…………できた……。
私の時計が……。
じわりと胸の中に熱が広がっていく。
今日この店に向かっていた時の、弾むような気持ち――
そんな気持ちを、私はようやく思い出していた。