洋館長屋
~3話~

【==== 洋館長屋仕事部屋 ====】

柔らかな針の音が、意識を呼び覚ます。
枕にしていた腕の痺れを感じながら瞼を持ち上げると、

優紀

(しまった……! もう開店の時間じゃないか)

優紀

(作業の切りどころを間違えて……つい、眠気に誘われてしまったな)

うつ伏していた机から離れると、ふと、ガラスの小鳥が遊ぶ父の置時計が目に留まった。

優紀

……あなたのお仲間には、まだ迎えが来ないようですねえ。

それだけ呟いて、私は店を開ける準備を始めたのだった。

パラスティン邸

パラスティン邸の店員

ありがとうございました!またお越しくださいね。

にこやかに見送る店員さんから商品を受け取って、私はお店から一歩出た。

莉子

ふう……。ランチも終了間際な時間だったのに、店内は賑わってたなあ。

莉子

(電話で予約しておいて正解だった。でないと、もう売れ切れてたよね)

よかったよかったと、買ったばかりのパラスティン邸のお菓子をひと撫でする。

莉子

(時計屋の店主さんも喜んでくれるといいな)

あの時計屋さんにお世話になったのが昨日のこと。
今日がお休みだった私は、彼のお店へお礼に訪れることにしたのだ。

莉子

(それと……涼太の時計)

一晩考えて、やっぱり涼太の時計を動かしてもらおうと心に決めた。
腕時計が入った鞄をぎゅっと握って、息を深く吸う。

莉子

うん……! 行こう。

洋館長屋

気合を入れてお店の前に立ってみると、出迎えたのはなんと「CLOSE」と書かれたプレートだった。

莉子

えっ……! 嘘っ!

お店の中も暗くて、人がいる気配がしない。

莉子

もしかして……定休日なのかな。

莉子

気にせずに来ちゃったから……。何曜日なら開いてるんだろう?

営業についての表示を探すと、定休日の表記はないけれど、扉の張り紙に営業時間が書いてあるのに気付いた。

莉子

『営業時間9:00~13:00』と、『15:00~19:00』……。

今の時間は14時45分。……つまり、お休みではなくて、営業時間外だったわけだ。

莉子

なるほど……いつもこの時間は閉まってるのね。

莉子

(ひとりでやってるお店みたいだし、お昼休憩でも取ってるのかな)

お店が開くまであと15分。近所を散歩してくれば丁度いい頃合いだと思う。

莉子

(そういえば、昨日……)

【==== 洋館長屋店内 ====】

優紀

パラスティン邸のお菓子は美味しいですよね。甘い物が好きなので私もよく買いに行くんですよ。

優紀

それ以外に和菓子などにも目がなくて。

洋館長屋

お菓子を受け取りにいってくれた時に、彼がニコニコとそう言っていたのを思い出す。

莉子

(和菓子かあ……ハーフっぽい顔立ちなのに、着物を着てたくらいだから、もしかして和物の方が好きなのかな?)

莉子

(建物も洋館で、パラスティン邸のお菓子が好きって言っていたから、つい洋菓子を買ってきちゃったけど……)

莉子

(…………)

莉子

うん……! 確か、この近くに会社の子がお薦めしてくれた和菓子屋さんがあったはず。

莉子

せっかくだから、そこのお菓子も追加しちゃおう。

【==== 洋館長屋店内 ====】

優紀

わ……! パラスティン邸のお菓子に、和菓子まで……!

優紀

この和菓子のお店、ずっと気になっていたんですよ。嬉しいなあ。

あの後、和菓子を買ってもう一度時計屋さんを訪れたら、もうお店は開いていた。

莉子

(喜んでもらえたみたい。足を伸ばしてみてよかったな)

莉子

あの……昨日は名前も告げずに失礼しました。私、元町 莉子と申します。

莉子

何から何までお世話になりまして……本当にありがとうございました。

莉子

これはほんの気持ちですが、その時のお礼です。

優紀

そんな……困った時はお互いさまですから、お気になさらずによかったのに。

優紀

でも、ご丁寧にありがとうございます。……ええっと……。

莉子

(? なんだろう?)

優紀

莉子さん、とお呼びしても構わないですか?

莉子

え? あっ、ええ、大丈夫ですよ。

優紀

ありがとうございます。日本ではすぐにファーストネームで呼びあう習慣はないとわかっているのですが……。

優紀

なんとなく癖で、こちらの方がしっくりくるものですから。

莉子

癖って……、やっぱり外国の出身の方なんですか? お名前も確か……。

莉子

じゃあ、そのお着物は日本が好きで?

優紀

あ……、これですか? これは母が着物を着ていると目立っていいと育てられ、そのままと言いますか……。

莉子

(目立つ……?)

優紀

でも着心地がよくて気に入っているのもそうですし、日本が好きなのも本当ですね。

優紀

ただ生まれも育ちもここ、神戸ですが。母親がフランス人で、ハーフなんですよ。

莉子

(なるほど……それで)

つい気になっていたことをぽろぽろと聞いてしまったけど、初めて会った時に感じたことは、あながち間違いではなかったのだと思う。

それに、私は彼のことを『時計屋の店主さん』、ただそう思っていたけど、名前で呼ぼうとする彼に『助けた女性』で済ませず、ちゃんと『元町 莉子』として覚えたいという姿勢が感じとれた。

莉子

(きっと、お店に来る方にも『お客さま』で終わらず、ひとりひとり名前で覚えてるんだろうな)

出会った人を大切にしている彼の人柄が垣間見えた。
なら私も……と、昨日教えてくれた彼の名前を思い起こす。

莉子

えっと……じゃあ、私も店主さんのことをボシーさんと、お呼びしても?

優紀

構いませんが……良ければ私のことも、『優紀』と、お気軽にお呼びください。

てらいなく告げる彼に、少しだけ照れが浮かぶ。
長い付き合いのある友人以外で、男性を下の名前で呼ぶのは久しぶりかもしれない。

莉子

は……はい。では、優紀さんと呼ばせてもらいますね。

莉子

それで……なのですが。

ひと呼吸して空気を変えてから、私は今日の大事な用件を胸に抱く。

莉子

実は、今日はお願いしたいこともあってこちらに伺ったんです。

莉子

見ていただきたい物があって……。

けど……顔を上げて彼をよく見たら動きが止まってしまった。

優紀

……莉子さん?

莉子

あ……す、すみません、じっと見たりして。

優紀

? なんでしょう?

莉子

(……どうしよう。でもここで何でもないですって誤魔化すのも、優紀さんからしたら気になるよね)

莉子

……えっと、髪に癖がついていて……。結構跳ねているので気になってしまったんです。

「すみません」と謝ると、彼は無言で頬を染めていく。
そして店内の鏡を覗いて、恥ずかしそうに顔を覆った。

優紀

い、いつの間に……! さっき休んだ時についたのかな……。

優紀

すみません、お見苦しいところをお見せして。

莉子

い、いえいえ。

莉子

(さっき休んだ……? 寝癖ってことかな)

確かに、気をつけて見るとほんの少しだけ目許が眠たげなようにも感じる。

莉子

(休憩時間に昼寝でもしてたのかな)

のびやかに時間を使う彼を想像して、ちょっとだけ微笑ましい気持ちになった。

莉子

(……そうだ)

莉子

あの……優紀さん、昨日淹れてくださったコーヒー、すごく美味しかったです。

莉子

お代はきちんと支払いますので、もしよろしければ、またコーヒーを願いしてもよろしいでしょうか。

優紀

え……? ええ。もちろんです。

優紀

それに、あれは店内でゆっくりと時計を見ていただくために用意している物なので、お代は要りませんよ。

莉子

そうなんですね。ありがとうございます。

皆さんにお出ししているものなんだと、ほっとする。
それから、もうひとつのお願いを続けてみた。

莉子

……それで、よかったらですけど。優紀さんもご一緒にどうですか?

莉子

(目覚めのコーヒーになればいいなって)

そんな私の私の考えは、もしかしたら筒抜けだったのかもしれない。
目を見開いた後に、彼が少し照れくさそうにしていたから。

優紀

……ありがとうございます。

優紀

でしたら、頂いたお菓子もお出ししましょうね。

【==== 洋館長屋店内 ====】

優紀

わあ……美味しそうですね!

莉子

ですね。和菓子も買ってきてよかったです。

持ってきたお菓子をテーブルに広げていると、優紀さんが私の前へ、例の優美なカップを置く。
コーヒーのいい匂いがふわりと鼻をくすぐった。

莉子

そういえば……店内にはアンティークが多いですけど、この食器もそうなんですか?

優紀

ええ。ただ、そのカップは母の実家に昔からあったのを、お客さま用にと譲り受けたものですが……。

優紀

店に飾ってあるのは、骨董屋やフリーマーケットなどで、私の趣味で手に入れた物たちばかりなんです。

莉子

へえ、優紀さんが?

確かに同じアンティークでも、この食器と飾ってある美術品とでは少しテイストが違う気がする。
店内にあるのはランプや香水瓶などで、幻想的な色合いを持った曇りガラスの作品が多かった。

ただ、どちらも長い間大切に守られてきたものだと感じさせる。

優紀

古い物は歴史を感じて……時の重みを教えてくれるからでしょうか。こうして眺めているのが好きで……。

莉子

ふふっ……やっぱり時間が関係するものがお好きなんですね。

優紀

あ、言われてみればそうですね。

初めて気がついたような表情をする彼がおかしくて、笑みがこぼれた。
……いつも笑った後に、なんとなく心の底からついていけてないような、楽しいのにどうしても表面だけになってしまうような、そんな感情を抱く。

それがまた私を追いつめるのだけど、今はそういった自分を嫌だとは思わなかった。

莉子

(……不思議……)

早く涼太の時計を見てほしい……、そういう焦りもまったく浮かばなくて。
むしろ大事な時計だからこそ、結論を急がずきちんと向き合いたいと思えた。

莉子

(……どうしてだろう)

莉子

(このお店にいると、自然と穏やかな気持ちになれる)

莉子

(ずっと、急き立てられるようだったのに……)

涼太が亡くなってからの日々は、ただ淡々と過ぎていくだけだった。
それでいて、時は矢のように流れていって。

まるで立ち止まる自分だけ、時間に置いていかれるような心地でいた。

莉子

(どうにかしなくちゃと思うのに、それでも上手く前には進めなくて……)

莉子

(だけど……)

手の中には、たくさんの時を超えたお姫さまのコーヒーカップ。
時計が奏でる、温かみのある針の音が、優しく私の耳へと届く。

莉子

(……ここでの時間は、まるで隣を歩いてくれてるよう……)

胸が痛む時間さえ大事なものに思えて。
自然と今だと思えた時、私はようやく口を開いた。

莉子

……優紀さん。

優紀

はい。

静かに頷き、優紀さんは次の言葉を待ってくれている。

莉子

……先ほども言いましたけど、実は今日はここへ来た理由がもうひとつあるんです。

そっと、鞄から小さな箱を取り出した。
涼太の……あの腕時計が入っている箱を優紀さんの前に置く。

莉子

この時計のメンテナンスと、電池交換をお願いしたいんです。

莉子

見て……いただけるでしょうか。

優紀

……お預かりいたしますね。

柔らかに微笑んで、優紀さんは丁寧な手つきで箱を手にした。
開いて……しばらく時計を眺めた後、彼は懐かしそうな色を声に乗せる。

それは――思ってもいない言葉だった。

優紀

ありがとうございます。……これは、父の代でお買い上げいただいたものですね。

莉子

……!

がたん、とぶつかったテーブルが音を立てる。
言葉なく立ち上がった私に、優紀さんが目を丸くしていた。

優紀

……莉子さん?

莉子

……あ……。

莉子

あ、あの……父の代にって……。

莉子

この時計は、こちらのお店で作られたものなんですか……!?

震えそうな唇で問えば、優紀さんは不思議げに首を傾げる。

優紀

は、はい。ご存知ではなかったのですか?

莉子

(うそ……)

……私が知らなかった涼太の時間。
それはまるで、ずっと埋まらなかったパズルの、最後の1ピースを……

目の前に差し出されたような心地だった。