坂の上の異人館
~10話~

【==== 浄恋寺境内 ====】

唐突に目前へ現れた相馬さんに、しばらくの間思考が停止してしまった。

だけど我に返った瞬間――

乃々花

相馬さん……っ!

乃々花

この前は、本当にすみませんでした……!!

私は勢い余って土下座のようになってしまいながら、相馬さんに向けて深く頭を下げる。

海里

……王子さん、そんなに大きい声が出るんですね。

明了

驚くところはそこじゃないと思いますが。

海里

いや、ええと……とにかく顔を上げてください、王子さん。

そっと肩に触れられ、つい体が震えた。

だけど私は勇気を出して、前に腰を下ろした相馬さんを見返す。

……私を見つめる彼の瞳には、呆れとか、怒りとか、軽蔑とか……
そういったものは含まれていないように思えた。

海里

……会えてよかった。

海里

お菓子と手紙を下さった後はショップや講習会でお見かけすることがなかったので、色々と気になっていたんです。

海里

王子さんのご連絡先は書類などで知ってはいますが、よほどの緊急事態であればともかく、私的な用件で連絡するわけにはいかないと思いまして……

乃々花

(……そっか。私は自分の好きな時に、ショップや相馬さんのご両親のお店に行けるけど、相馬さんは私の様子が知りたくても、気軽に会いにくるわけにはいかないもんね)

私が参加しないことを気にして真緒や琴子もショップへは行っていなかったようだし、
常連のお客さんがぱったりと来なくなったら、多少なりとも気になるのが当然だ。

改めて自分のことばかり考えてしまっていたことが恥ずかしくなり、また頭を下げる。

乃々花

それは、ご心配をおかけしてしまってごめんなさい……。

乃々花

手紙にも書いてましたけど、足もすっかり良くなりましたし、単に……気まずくて。

乃々花

それで、改めてお詫びをするのが遅れてしまったんです。すみません……。

海里

いえ、お詫びなんて……そんな必要はないんですよ。

海里

ただ、あの時は私も配慮が足りず、冷たい態度を取っているように感じさせたのではと……

乃々花

えっ?

海里

……あの日登山道を踏み外してしまったのは、登山客の男性に声をかけられたからでしょう。

海里

ここ最近はあまり意識していなかったのですが……

海里

そういえば王子さんはもともと男性が苦手だったんだと思い出して、だから今は男の私が必要以上に近づいたり話しかけたりしない方がいいかと、あの時は考えたのです。

乃々花

(……! そうだったんだ……)

乃々花

(確かに、相馬さんは私を支える役目も真緒達に任せていたし……)

乃々花

そんなふうに気を遣って頂いていたんですね。

乃々花

それなのに私、何も知らないで、自分がどう思われるかばかり気にして……

海里

王子さんが自分を責めることはないんです。私がきちんと意図を伝えていればよかったのですから。

海里

それに……人にどう思われるか気になるというのも、普通のことですよ。

海里

私だって、王子さんに頼りないと思われたり、口うるさい男だと嫌われたら嫌ですから。

乃々花

…………。

少し、びっくりした。

私が相馬さんに対して、そんなふうに思うことなんて絶対ないのに。

乃々花

嫌ったりしません……! いつも真摯にアドバイスしてくださって、助けてくださって、感謝の気持ちはあっても、嫌いになることなんて……。

乃々花

私、相馬さんのこと、好きですよ。

海里

…………。

明了

………………。

乃々花

(……あっ)

今度は相馬さんと、そばで見守ってくれていた住職さんが目を丸くする番だった。

かあ……っと顔が熱くなっていく。

乃々花

(私、勢い余って誤解されそうなことを……!)

明了

で、では、後は若いおふたりだけでごゆっくり……。

海里

何を言ってるんだ、お前は。

明了

……こういった甘い雰囲気はどうも不得手なんです。

海里

別に甘いことはない。茶化すなよ、王子さんに失礼だろう。

乃々花

いえ、失礼なことを言ってしまったのは私の方で……!

乃々花

好きって言っても、変な意味じゃないんです。こう、頼れるお兄さん的な……。

明了

ほう、頼れるお兄さん。

乃々花

前、妹さんの話をしてもらったことがありまして。

乃々花

それで、私にもお兄さんがいたらこんな感じだったのかなって……。

海里

……え……。

乃々花

あ、でも、これも本物の妹さんからしたら図々しい話かも。

海里

……いや、妹に言ったら『うちの兄さん? あげるあげる』って笑いますよ。

相馬さんが肩をすくめて冗談めかす。

乃々花

(……あ……)

乃々花

(…………)

乃々花

(……本当に、謝れてよかったな)

礼儀として、お世話になったお礼やお詫びをきちんとしなくちゃ……というのはもちろんだけど、こうしてわだかまりなく気さくに笑顔を見せてもらえているのが、単純に嬉しかった。

明了

……海里も王子さんのことは気にしていたようですから、こうやって話し合えてよかったですね。

明了

だいたいのことは自分で解決してしまう彼が、王子さんのことは私に相談するほど心配していましたから。

乃々花

そ、そうなんですか?

明了

ええ。仕事や登山に対して真剣で、責任を持っているというのもあるでしょうが、海里は単純に人がいいので。

海里

……お前には言われたくない。

明了

怪我は大丈夫だっただろうか、危険な目に遭って男性や山をますます嫌いになっていないだろうか。

明了

この前の講習会では山野草が綺麗だったから、王子さんがいたら喜んだだろうに……

海里

…………

相馬さんは拗ねたような表情で「余計なことを」と呟いたけど、否定はしなかった。

胸が温かくて、心配をかけていたというのに唇が綻んでしまう。

海里

……運動が苦手なことや失敗したことで、呆れたり迷惑だと思ったりなんてしませんよ。

海里

むしろ、苦手なことを克服しようと頑張っている王子さんは立派だと、いつも思っているんです。

海里

趣味は決して強要するようなことではないので、もし王子さんが登山をやめたとしても、私が口を挟むようなことではないのですが……

海里

でも、戸惑いながらも一生懸命登山を楽しもうとしてくれていた王子さんに、図々しいながら、もっと色々お教えしたいことがあった……と思ったのは事実です。

海里

興味を持たれていた山ごはんも、まだ本格的にレクチャーできていませんでしたしね。

乃々花

相馬さん……

乃々花

そんなふうに思ってもらえて、とっても嬉しいです。ありがとうございます……!

心からのお礼を伝えて、そういえばと住職さんにもまたお辞儀をする。

乃々花

相馬さんがお寺にいるから、住職さんも声をかけてくださったんですよね?

乃々花

こうして話す場を作って頂いて、本当にありがとうございました!

明了

いえいえ……。私は何も。

明了

海里も頻繁に遊びに来るわけではありませんので、今日彼が居合わせたことも、私がちょうど買い物に出て王子さんが来られたのに気付けたことも、何かのご縁でしょう。

明了

私の友人とこれからも仲良くして頂けると、私も嬉しいですよ。

乃々花

はい……!

乃々花

あの、相馬さん。

乃々花

もうすぐ夏休みが終わっちゃうので、今までよりペースは落ちちゃうと思いますけど、でもまた時間を作って、講習会に参加したいと思います。

乃々花

だからご迷惑でなければ是非、また色々教えてください。

居住まいを正して、相馬さんへ告げる。

……でも彼は、少し困ったように整った眉を下げた。

海里

すみません、王子さん。

乃々花

(あれ!? やっぱり図々しいお願いだった……!?)

海里

そんな顔をしないでください。迷惑がっているとかではないんです。

海里

実は……つい先日決まったことなのですが、しばらくの間、私が上級者向けの講習担当に移ることになりまして。

乃々花

(……え……!)

海里

さっきあんなふうに言っておいて何なのですが、王子さんが講習会に参加されても、別の担当がつくことになると思うのです。

乃々花

……別の担当さんが……

乃々花

(そうなんだ……)

単純に山歩きに魅力を感じていたし、運動をして健康的な女性になりたい、というのも忘れていないから、相馬さんがいないのならじゃあ行かない!なんて言うつもりはなかった。

乃々花

(もちろん、すごく残念ではあるけど……)

乃々花

……わかりました。でもお店でお会いできた時は、色々報告したり、相談したりしてもいいですか?

海里

ええ、それは……。

海里

…………。

乃々花

……? 相馬さん?

海里

…………王子さん。

海里

これは、王子さんがよければの提案なのですが……

【==== 山道 ====】

――10月に入り、晴れた秋空の下。

海里

体も十分ほぐれましたし、出発しましょうか。

乃々花

はい……!

私は相馬さんと一緒に、登山口へ入っていった。

講習やツアーではなく、ふたりだけで――

【==== 浄恋寺境内 ====】

海里

これは、王子さんがよければの提案なのですが……

海里

仕事としてでなく、個人的に私がガイドをするのはどうでしょうか?

乃々花

……えっ……

今の状況になっているのは、あの日相馬さんがしてくれた、そんな『提案』のおかげだった。

海里

さっき、私を兄のように感じていると言って頂きましたが、私もどこか、妹のように王子さんを思っていたのかもしれません。

海里

……何か、目を離すと大怪我してそうで、放っておけないというか。

乃々花

うっ……危なっかしくてすみません……。

海里

いえ、実際に妹も、体の弱さを改善しようと頑張りすぎて倒れたことがあったので、余計にそう感じてしまうのだと思います。

海里

あいつも今は元気になって女子サッカーのエースなんですが……まあそれはともかく。

海里

担当を外れたから終わり……ではなく、もう少し見守らせてもらえればと思ったのです。

海里

仕事が優先なので、そうしょっちゅうというわけにはいかないのですが……

乃々花

……あ……ええっと……

乃々花

(まさか、そんなことを言ってもらえるなんて……!)

本音を言えば、もちろん是非にとお願いしたい。

でもそこまで厚意に甘えてしまっていいものだろうか……。

明了

……王子さん、遠慮ならしなくていいですよ。

明了

社交辞令でこういうことを言い出すような人ではありませんから、海里は。

……口添えしてくれる住職さんにも背中を押されて。

遠慮しながらも結局私は、ありがたく相馬さんの申し出を受けることにしたのだった。

【==== 山道 ====】

乃々花

いいお天気……。それに風も気持ちいいですね。

海里

ええ。絶好の登山日和ですし、高峰さんと南さんも都合が合えばよかったのですが。

乃々花

そうですよね。ふたりとも一緒にのんびり歩きたかったんだけどなぁ……。

運良く相馬さんに予定の空きがあり、今日は初めて個人的なガイドをしてもらっているのだけど、経緯を報告して琴子と真緒を誘うと、ふたりはスケジュールが合わないようだったのだ。

カフェ・ド・ミュージアム

真緒

えっ……相馬さんがそんなこと言ってくれたの?

乃々花

うん! それでね、再来週の日曜、早速ガイドしてもらえることになって。

乃々花

真緒と琴子も一緒に行こうよ!

琴子

…………ふむ。

琴子

……すまないねのの、その日はちょっと予定が。

真緒

そうだね~……。私も用事があってさ。

乃々花

そう……なの? じゃあ、仕方ないかぁ……

琴子

まあまあ、こっちの人数が多いと、相馬さんにも負担がかかるだろうしね。

琴子

私達の参加は様子を見ながらにしよう。

真緒

どうだったか報告はよろしくね。

真緒

……乃々花、頑張るんだよ! かわいい格好していきなよ!!

乃々花

ん? うん……?

【==== 山広場 ====】

相馬さんが案内してくれたのは平坦で景色のいいハイキングコースで、危険もなく安心して頂上までやってくることができた。

海里

……これは……。王子さんがご自分で作られたんですよね。

乃々花

は、はい。ちょっと張り切りすぎちゃいましたけど……。

そこで昼食にしようと私が広げた2人ぶんのお弁当は、自分で見てもかなり豪勢になってしまっていたと思う……。

乃々花

(お礼も兼ねて相馬さんの分も……って思ったせいで、つい気合いが入っちゃって……)

海里

はは……ありがたく頂きます。

海里

さすが栄養学科なだけあってバランスもいいですし、彩りもとても華やかですね。

相馬さんは綺麗な所作で、美味しいと笑顔になりながらお弁当を食べてくれた。
そのことに勇気づけられて……昼食を終えて立ち上がった時、私は思い切って彼に声をかける。

乃々花

相馬さん。今日、言おうと思ってたこと……というか、提案があるんですけど。

海里

提案ですか?

乃々花

はい。その……

乃々花

言葉遣いとか、態度とか、もうちょっと気を遣わないでほしいなって……

海里

え……

乃々花

だって、今はお客さんとしてじゃなく、個人的にガイドしてくださってるんですから。

乃々花

それなのに私に対して、お客さんにするような扱いをしてもらうのが心苦しいなぁと……。

乃々花

私の方が教えてもらう側なんですから、丁寧に接してもらわなくてもいいんです。

乃々花

私が変なことをしたら、厳しくずばっと指摘してもらって全然構いませんし。

海里

…………。

乃々花

あの、逆にやりづらいとかがあれば、今のままでも構わないんですけど……。

海里

…………いや……。

海里

王子さんがいいのなら。

海里

俺もその方が、やりやすいかもしれない。

乃々花

(……!!)

海里

嫌になったら、すぐに戻そう。遠慮なく言ってくれていい。

乃々花

は……はい! 大丈夫だと思いますけど……!

自分で言い出したくせに何だか照れてしまいながら、下山しようと歩き出した。

【==== 山道 ====】

その道のりの途中……ただでさえ浮かれていた私は、さらに目を輝かせる。

乃々花

あっ、ここにもリンドウが咲いてる!

海里

ああ、本当だ。前に見たものより色が淡くて、また違った良さがありますね。

海里

……違った良さがあるな、うん。

律儀に言い直しながら、ふと相馬さんは小さく首を傾げた。

海里

そういえば、王子さんはリンドウが特別に好きだとか……?

乃々花

はい。……小学生の頃なんですけど……

私は悠人くんのことや、彼にもらった植物図鑑とリンドウの栞のこと、それらを今も大切に持っていることを話す。

海里

そうか……それで山の植物について詳しかったのか。

海里

大事な思い出なんだな。

乃々花

はい……!

悠人くんの話をしたからだろうか。

ふっと懐かしさが広がって……そして、不思議な気持ちを覚える。

乃々花

(……あれ……?)

乃々花

(どうしてだろう。悠人くんと相馬さんは、外見も性格も全然違うのに……)

何だか、悠人くんと相馬さんが重なって感じたのだ。

乃々花

(優しいところが似てるからかなぁ?)

海里

……あ、王子さん。

乃々花

え……あっ! すみません。

相馬さんが肩に触れて、他の登山者の人が登ってくるのを教えてくれる。

乃々花

ここでしゃがみこんでると邪魔になっちゃいますよね。行きましょうか。

リンドウの姿を心の中のアルバムに収めて、私はまた彼と歩き出した。

ゆっくり、ゆっくり、進んでいく。

海里

次は、いつにしようか。

これから寒くなるなら、装備も考えないといけないし……と、相馬さんは真剣に考えてくれている。

乃々花

いつ頃かな……私の方も予定調べて、連絡しますね。

乃々花

でも、相馬さんのスケジュールに合わせてもらって大丈夫ですから。

乃々花

いつになっても構いませんけど……楽しみにしてます。

海里

……うん、俺も楽しみだ。きっと王子さんが思っているよりも本気で。

乃々花

そ、そうですか?

海里

考えてみれば、ここ数年、仕事以外で山に登ることがあまりなかったしな。

海里

いつか、明了の奴も誘ってみるのもいいかもしれない。あいつも料理好きだから。

海里

高峰さんと南さんとも都合が合う時があれば、料理好きばかりのチームだし、山ご飯に本格的に取り組んでみたり……

乃々花

わあっ、すごくいいですね!

私は体力も知識もまだまだで、すぐにはそういう機会もこないだろうけれど……

『星野さんみたいな健康的な女性になりたい』っていう目標の隣に、
『登山や山ご飯の経験を積んで、いつか美味しい料理で相馬さんに恩返ししたい』っていう目標がいま増えたから。

だからこれからもきっと、頑張れると思う。

乃々花

……そういえば、相馬さんの好きなものって何ですか?

海里

俺の? そうだな、色々あるが……

無理はしすぎずに、でも真っ直ぐにステップアップしていきたい。

彼に楽しませてもらうばかりの今から、山や自然を一緒に楽しめるようになる、
いつかの未来まで――。