坂の上の異人館
~1話~

……それは懐かしくて、とても優しい思い出だった。

高校教室

悠人

――乃々花ちゃん。これ、あげるよ。

乃々花

え……いいの? でも……

悠人

もっと女の子が好きそうなもの、あげられたらよかったんだけど。

乃々花

ううん……。すごく嬉しい。

悠人

そっか、よかった……。

悠人

向こうに行っても、元気でね。

乃々花

……ありがとう、悠人くん。大事にするね。ありがとう……

小学2年生の秋。

同じクラスの悠人くんにもらった植物図鑑を抱えて、
私――王子 乃々花は、今まで住んでいた町にさよならをした。

乃々花

あ……

それに気付いたのは、家に帰ってからのこと。

図鑑の真ん中には、リンドウの押し花を使った、1枚の栞が挟まっていた。
家で育てていると言っていたから、きっとその花で手作りしてくれたんだと思う。

悠人くんが好きな花。
深い青がどこかさびしくて、でもとてもきれいで……私も大好きになった花。

私は視界が滲んでいくのを感じながら、その青色を、ずっと見つめていた……。

カフェ・ド・ミュージアム

乃々花

……それで、その図鑑と栞は今でも大事にしまってあってね……!

真緒

琴子ー、砂糖取って。

琴子

あんまり入れすぎないように。いつも3つも4つも使うんだから。

乃々花

…………

短大が夏休みに入ったある日、行きつけの喫茶店の窓際席で。

懐かしい記憶の中から現実の時間へ戻ってきた私は、
真緒と琴子――友達ふたりのあんまりな態度に、むっと眉をひそめた。

乃々花

な、何よ何よ。ふたりが聞いてきたから話したのに……

琴子

……ののクンよ。我々の質問文は、『最近気になってる男の子とかいないの?』だったはずだよ。

真緒

誰がそんな、おとぎ話みたいにフワフワした初恋の話をしてくれっつったのよ。

真緒

しかも小学校の時の恋愛が『最近』って……。京都人の『先の戦争』じゃああるまいし。

乃々花

……だって……

琴子

まあ、さすが中学高校そして現在の短大まで、全て女子校で通してきただけはあるというか……

真緒

今時珍しい純粋培養ってやつかしら。

琴子と真緒は呆れた様子で顔を見合わせるけれど、すぐに表情を悪戯っぽいものに変えて、私へと向き直る。

琴子

……そこで、今日の議題というわけだよ、ののクン。

乃々花

議題?

真緒

つまりは、今日の行き先についてでもあるけど。

真緒

この近所に、大きめのアウトドアショップがあるのは知ってる?

乃々花

(…………えっ)

乃々花

……アウトドアショップぅ……?

乃々花

と言うと、キャンプとか、登山の道具とかが売ってある……?

琴子

おや。運動全般を毛嫌いしている超インドア派の乃々花が、アウトドアショップの存在を理解していたとは。

乃々花

別に毛嫌いなんてしてないよ! そりゃあ、運動とかスポーツとかは苦手だし興味ないけど……

乃々花

って、そうじゃなくて! 『アウトドアショップが今日の行き先』ってどういうこと?

乃々花

服を買いに行こうって話だったはずなのに……!

琴子

別に嘘はついてない。登山には登山に相応しい格好というものがあるだろう。

乃々花

…………なに、ふたりとも、登山するの? 山に登るの? がんばってね……

真緒

安心してよ。ワタシ達、トモダチ。乃々花ちゃんを仲間外れになんかしないってば。

嫌な予感が的中して、私はぶんぶんと首を振った。

乃々花

いやーっ! 私、いい! 仲間外れでいいっ! 第一、何で急に登山なんて……

真緒

チラシ入ってたのよ。ほら、リニューアルオープンでウェアが安くなってるんだって。

乃々花

でも……!

真緒

まあまあ、聞きなよ。

真緒

乃々花ってば、ごつい山男がピッケルとザイル持ってエベレスト登頂するのだけが『登山』だと思ってるでしょ?

琴子

私としては、そういうムサイ男も悪くないとは思うんだがね。

真緒

琴子の男の趣味については脱線するから放っておくけど……ほら、ずいぶん前から山ガールとか話題になってたじゃない。

真緒

若い女の子が登山するのも、もう普通な時代なのよ。チラシに載ってるモデルもお洒落なウェア着てるよね?

乃々花

……それは、確かにそうだけど……

乃々花

あっ! 真緒も琴子も、カレシいるよね? カップル水入らずで登山デートすれば……

琴子

女同士でのんびり登るのがいいんじゃないか。

真緒

そうそう、のんびり、のんびりね。目指すは初心者でも大丈夫な低山よ。

真緒

そろそろ夏も終わりで暑さも和らいでくるし、ピクニックとか遠足にちょろっと毛が生えた程度のもんだって。

乃々花

私、ピクニックでも遠足でも息切れするもの! それに毛が生えたらもっと無理……!

琴子

……のーの。

ちょっと真面目な声色になって、琴子がこちらへ少し身を乗り出す。

琴子

アンタ、『いつまでもこんなのじゃ駄目だよね』って、前に自分でも言ってたろう?

乃々花

うっ……。

真緒

短大の2年間なんてあっという間。もう秋よ?

真緒

夏休みもすぐ終わっちゃうだろうし、ぼけっとしてたらすぐ卒業、そして就職なの。

琴子

ののも栄養士目指してるんだろう?

琴子

就職先にもよるけど、ずっと調理で立ちっぱなしなんて事も多いんだ。体力つけておかないと。

同じ短大の、同じ栄養学科に通うふたりの言葉には重みがあった。

真緒

……もちろん、男女行き交う場所に乃々花を連れて行って、アンタの男性への苦手意識が薄まればとも思ってるわよ。

真緒

上司、同僚、お客さん。仕事となれば、男の人を避けてばっかりいられないでしょ。

乃々花

(……そりゃあ、わかってるけど)

琴子と真緒の気持ちも、ちゃんとわかってる。
ふたりが言うように、私は小さい頃から、ちょっと……いや、かなり男性が苦手だった。

何か特別にひどいことをされたわけじゃない。

でも……口下手で、運動が苦手で、食べることが好きだった私は、小学生くらいの男の子達にとってかっこうのからかい相手だったのだ。

『乃々花、走るの遅すぎだろ! ノロマの“ノロカ”だな! あはは……!』

『お前って何でも美味しい美味しいって食べちまうよな。食べ過ぎだから、体が重くてノロマなんじゃねえの?』

『あーあ、ノロカがまた泣いた。ノロマで、大食いで、しかも泣き虫なんだな~!』

当時の私には言い返すことも無視することもできず、怖くて、恥ずかしくて、苦しくて……。

乃々花

(それから、男の人が苦手になっちゃったんだよね……)

本気でいじめられたんじゃなく、子供時代にはありがちな軽口程度だったし、
私だって今でも恨んでいるとか、男の人が大嫌い!と思っているわけじゃない。

悠人くんみたいに、からかいからかばってくれるような優しい男の子がいるのも知っている。

だけど中学からの女の子ばかりの環境に慣れきってしまったせいか、男性というものに対する印象が、意地悪な男子のままで止まってしまっているというか……
頭ではわかっていても、男の人の前に出ると怖くて、つい固まってしまうのだ。

乃々花

(でも……でも、琴子達の言う通りだ。私ももう18歳なんだし、いつまでもこのままじゃいけない)

乃々花

(少しでも体力をつけて、怖がらずに男の人と話して、嫌な思い出を乗り越えるべきだって思う)

乃々花

(……思いは、するんだけど……)

真緒

……乃々花。

しゅんとしてしまった私を慰めるように、ふたりが口調を柔らかくする。

琴子

別に、ののをたったひとりで合コン会場とかに放り込もうってわけじゃないよ。

琴子

他の登山客と挨拶したり、一言二言雑談したりするくらいから始めればいいんだ。私達も一緒にいるんだし。

乃々花

……うん……

琴子も、真緒も、すごく優しい子だ。

こうしてちょっと強引な手段に出たのも、そうでもしないと私がうじうじして、全然動き出さないって知ってるからだもの。

乃々花

わ、わかったよ、ふたりとも。私頑張る!

琴子

おお、その意気だ。

真緒

私らがついてるからさ、大丈夫だよ!

乃々花

うん! ……でも、頑張るけど……

乃々花

……心の準備をしたいから、頑張るのはまた今度じゃダメ?

琴子

さ、行こうか、ののクン。

真緒

アンタの分は私達が払っておくから。はいさっさと立つ、歩く。

乃々花

あああ……! 待ってよ、ふたりとも~!

北野坂

乃々花

(結局連れてこられてしまった……)

引きずられるようにしてやってきた、アウトドアショップの前。

ショーウィンドウには本格的なキャンプ用品が並べられ、岩や焚き火を模したディスプレイが荒々しい自然を表現している。

真緒

……思いっきり腰が引けてるよ、乃々花。

乃々花

私みたいなの、場違いな気がして……。ほら、リアルな熊のぬいぐるみとか飾られてるし。

琴子

客を選んだりしないフツーのお店だってば。鬼も悪魔も本物の熊もいないよ。

乃々花

でも、熊みたいに荒くれた山男はいるんじゃないかな……

真緒

ここにいるのは爽やか山ボーイとお洒落山ガールばかりよ。ほら、入った入った。

乃々花

あああ……

アウトドアショップ店内

店員

いらっしゃいませ!

店員

いらっしゃいませ~!

渋々ながらも店内に入ると、あちこちから明るい挨拶が飛んでくる。

見回してみると、店員さんもお客さんも老若男女様々みたいだ。

乃々花

(本当だ、思ってたよりも普通な感じ……。私達みたいな若い女の子も結構いるし)

私がついきょろきょろしてしまっていた間に、真緒は手近な店員さんを捕まえて話しかける。

真緒

すみませーん。

女性店員

はい! 何かお探しですか?

真緒

えっと……私達登山とかって初めてなんですけど、初心者にはどういうものが必要なんでしょうか?

真緒

ハイキングくらいの、やさしい所から始めてみたいなと思ってるんです。

女性店員

かしこまりました。登山は初めてとの事ですので、まずはいくつかお聞きしてもよろしいですか?

店員さんはメモを取りながら、にこやかに私達の希望を聞き取り始めた。

具体的にどんな目的で山に登るのかとか、日帰りならこんな道具が必要だけど持っているかとか……
私達とやり取りしながら、あれこれと合いそうな商品を選んでくれる。

無理に高いものを売りつけてくるでもなく、親切に対応してもらっているのがわかった。

乃々花

(…………うう、でも……)

乃々花

(やっぱり、登山なんて……体育以外でのスポーツ経験もない私には、いきなりすぎるよ)

真緒

乃々花。このシューズなんかどう? かわいくない?

乃々花

そ、そうだねぇ……

曖昧な返事をしながら、渡された登山用の靴を手の中で持て余す。

最初に抱いていたような無骨だったり厳しすぎるイメージは消えたものの、
かといって、自分がこれを履いて元気に山登りをしている姿もあまり想像できなかった。

乃々花

(男性苦手を直したり体力をつけたりしたいっていうのは嘘じゃないけど……)

乃々花

(登山じゃなくても、別の方法があるんじゃないかなぁ、とか……。何とかふたりを説得して――)

乃々花

(……ん?)

乃々花

あれは……

琴子

どうかした?

真緒

……あっ、わかった。あっちの『山ごはん』コーナーが気になるんでしょ?

乃々花

う、うん。

女性店員

そちらもご案内いたしましょうか?

乃々花

……はい。お願いします。

好き嫌いなく美味しいものが好きな私は、自然と料理することも好きになっていった。

だからつい、料理や食品に関わる商品を見ると興味がそそられてしまう。

女性店員

こちらがレトルトやフリーズドライ食品ですね。調理用器具はこちらの棚です。

乃々花

わあ~、たくさん種類があるんですね! 選ぶのも大変そうだけど……

女性店員

それでしたらこちらのコーナーに、初めての方におすすめしているセットがございますよ。

女性店員

当店では登山用品のレンタルも行っておりまして、ラインナップには調理器具もございますので、そちらをご利用頂くのも手軽かと思います。

乃々花

へえっ、レンタルとかもあるんですね。

女性店員

はい、よろしければ後ほどレンタル用のチラシもお渡しいたしますね。

女性店員

ただ最初でしたら、まずは魔法瓶の水筒にお湯を入れて、山頂でコーヒーやスープを飲む……というだけでも、山ご飯の醍醐味は味わえるのではないでしょうか。

乃々花

そっか。いきなり本格的な料理から始めなくても、温かいものを外で頂くだけで特別感はありそうですよね。

琴子

…………へえ。

真緒

ふ~ん……。

乃々花

(……あっ)

真緒

乃々花も、結構乗り気になってきたんじゃない?

乃々花

……ま、まあ、ちょっとは……。

ニヤニヤしているふたりに拗ねてみせたくもなったけど、
実際、山ご飯コーナーを見たことで私の気持ちは上昇し始めていた。

乃々花

(運動は苦手だけど、自然は好きだもの)

乃々花

(緑に囲まれた中での食事は、新鮮で開放感があって楽しいだろうな……)

……だけど、そんなふうに前向きになりかけていた時。

女性店員

あっ……申し訳ございません、お客様。少々お待ちください。

インカムで何か呼び出しがかかったのか、店員さんが慌てた様子で視線を巡らせる。

そして――

女性店員

相馬さん。こちらのお客様のご案内、引き継いでいただいてもいいですか。これ、メモです。

???

ええ、構いませんよ。

乃々花

(えっ……!)

店員さんは、近くで商品の整列をしていた別の男性店員を連れてきて、私達に担当が変わることを詫びるとすぐにお店の奥へと消えてしまった。

乃々花

(……あう……)

???

初めての登山を予定されているのですね。引き続きのご案内は、私、相馬がさせて頂きます。

『相馬 海里』と記された名札を下げた店員さんは、私達の方に微笑みを向けてそう言ってくれたのだ……と思う。

彼は他の店員さんより背が高く体つきがしっかりしている感じで、声も低くて落ち着いていて……
普通の女の子なら『男性らしくてかっこいい!』と見惚れるような特徴から、私はとっさに目を逸らしてうつむいてしまっていた。

海里

……? どうかなさいましたか?

真緒

あーいやいや、ダイジョーブです。

琴子

……のの。取って食われやしないって。

琴子のささやき声に、うまく返事をすることもできない。

乃々花

(私はお客さんなんだし、ひどいことを言われたり、からかわれたりするはずない)

乃々花

(それは、わ、わかってるけど……)

乃々花

(でもやっぱり男の人、苦手だよ! どうしよう……!!)