坂の上の異人館
~4話~

【==== 山道 ====】

乃々花

(……っ……)

視界いっぱいに、砂や小石が広がる。

山道で転んでしまったのだと気付いた直後、かあっと顔が熱くなった。

クラスメイトの男子

『あー、またノロカが転んだ!』

クラスメイトの男子

『バトン転がってっちゃったし……どうせオレたちのチーム、またビリだよ』

リレーで転んで、男子にからかわれたこと。

先生

『大きな怪我はないのですが、転んだ時に捻挫をしてしまったようです。申し訳ありません、私の監督不足で……』

乃々花の母

『い、いえ、こちらこそ……先生が学校まで乃々花を背負って送ってくださったそうで、ありがとうございます』

乃々花の母

『乃々花、大丈夫? 車で迎えに来たから、一応病院に行きましょうね』

遠足の帰り道でつまづいて足をくじき、先生に背負われて帰ってきたこと。

苦い思い出が勝手に蘇ってきたけれど……実際に流れた時間は、ほんの一瞬だったのだろう。

すぐに周囲がざわめきだして、相馬さんが振り返り、真緒と琴子も私のそばへしゃがみ込むのがわかる。

海里

王子さん!

琴子

ののっ、大丈夫か?

真緒

怪我してない?

参加者の老婦人

あらら……お嬢さん、大丈夫?

参加者の男の子

おねーさん、痛くない? 平気?

女性ガイド

誰かお怪我をされましたか? 救急セットを持っていきます!

乃々花

あ……

乃々花

……あ、あはは、大丈夫です! すみません、私、あの……

恥ずかしさでほとんど頭は真っ白になりながら、必死に起き上がった。

でも打った膝や、咄嗟に地面についた手は、じんじんと遅れて痛み始めている。

乃々花

平気です、ちょっとつまづいちゃっただけで……

海里

――王子さん。

乃々花

……!! っ、わ……!

海里

危ない!

ぐっと相馬さんが近づいてきて思わず後ずさりそうになった私は、また体勢を崩しかけてふらつき、彼に支えられてしまった。

乃々花

(わ、うわっ……!)

情けなさに赤くなるやら、男性に触れられていることに青くなるやらでパニックになりそうな私をよそに、相馬さんの声音は心配の滲むものへ変わる。

海里

やっぱり……手のひらを怪我されてますね。

真緒

えっ!?

乃々花

……あ、いや……

琴子

…………本当だ。地面についた時にすりむいたんだろうね。

星野

王子さん、失礼します。……うん、深い怪我ではないようですね、よかった。

星野

でも、手当はすぐにしておかないと。他の皆さんは……

海里

ここで大勢で立ち止まると通行の邪魔になってしまいますから、皆さんには先行して頂きましょう。

海里

手当は私が担当しますので、星野さんは皆さんをお連れして掬星台まで。お願いできますか?

星野

はい、わかりました。

星野さんは頷くと、手際よく他の人達を誘導して先に進みだした。

真緒

乃々花、私達も残るよ。

琴子

ああ。

乃々花

えっ……

真緒と琴子は、『自分達が誘った登山で怪我をさせてしまった』なんて思っているのかもしれない。

すまなそうな表情を見て、私はとっさに大きく首を振っていた。

乃々花

いいの、いいの。大した傷じゃないし、本当にすぐ追いつくから、先に行ってて。

琴子

いや、しかし……

乃々花

へーきへーき! ほら、あんまり大人数でいると邪魔になるってさっき言ってたじゃない。

乃々花

そうだ、先に行って、お昼食べる場所取っておいてくれる?

真緒

……ほんとに大丈夫?

乃々花

うん!

真緒

……わかった、じゃあ……。

ふたりは私を気にしながらも、先に行った皆を追っていった。

……私はそれからやっと、相馬さんとふたりきりになってしまったことに気付く。

乃々花

(し、しまった、つい……!)

海里

王子さん。適当な場所におかけになって、少しお待ちください。

乃々花

は……はい……

今さら真緒たちを呼び戻すわけにもいかないし、とりあえず素直に頷いて、道の端にある手頃な石に座った。

相馬さんは私のそばに腰を落とすと星野さんから渡されたバッグを開き、中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して開封する。

それから、何やら先がジョウロのようになっているキャップを取り付けると、ペットボトルからの水がシャワーのようになって地面を濡らした。

乃々花

(へえ、ああいう道具があるんだ……)

海里

傷を洗いますので、手を出して頂けますか? 染みるようでしたら言ってください。

乃々花

わかりました。お願いします……。

差し出した手のひらを、ひんやりした綺麗な水がそっと洗い流していく。

怪我といっても血が滲む程度に軽くすりむいただけで、重大なものでは全然なかった。

乃々花

(……感染症とかのこともあるからちゃんとした手当が大事なのはそうなんだろうけど、こんな小さい擦り傷で、変に騒いじゃったな)

乃々花

(ガイドさんも2人だけなのに、相馬さんをわざわざ私につかせちゃって)

乃々花

(それに講習会の途中に怪我なんて、主催した側からすると困るだろうし……)

乃々花

(……それにこんな初心者向けの場所でいきなり転ぶなんて、やっぱりどんくさいとか思われてるだろうな)

また嫌な記憶が浮かび上がってきそうになって、ぎゅっと唇を噛んでうつむく。

……それを、傷が痛んだと思ったのかもしれない。相馬さんがペットボトルを置いて私を窺った。

海里

王子さん、大丈夫ですか?

乃々花

え……あ、いえ、平気です!

乃々花

そのっ……色々ご迷惑をおかけしてしまって、すみません。

海里

……いえ……

海里

謝罪しなければならないのは私の方です。本当に……申し訳ございません。

乃々花

(……へ?)

ほとんどその場しのぎで言ったような私の言葉に、相馬さんからは真摯な声音が返ってきた。
ぎょっとして彼を見上げ、まともに相馬さんと視線を合わせてしまう。

だけど今は、怖さや緊張は感じなかった。

彼が本当に、心配そうな、申し訳なさそうな面持ちをしていたから。

海里

王子さん。転ばれたのは単につまづいただけではなく、歩いた疲れが溜まって、体調が優れなかったからではありませんか?

乃々花

…………!!

乃々花

ど、どうして……

海里

……やっぱり、そうだったんですね。顔色が悪かったので、無理して平気なふりをされているのではと思ったんです。

海里

近くにいた私が早く気付いて休息を取らなければならなかったのに、注意が行き届かず……

乃々花

そ……そんな! 相馬さんが謝ることはないんです!

乃々花

私が、具合が悪いのを言い出せなかったから……

海里

……そういうことも含めて、です。

海里

登山は奥深く面白いものですが、一歩間違えれば大怪我をしたり、命に関わる事故にも繋がります。

海里

そういったことを防ぐために、講習会があり、私達のようなガイドがいるのですが……

海里

お客さまと信頼関係を結べず、困った時に頼るのを躊躇してしまうようなガイドでは、意味がありません。

海里

ですから、王子さんが不調を訴えにくいと思った……それこそ、私の落ち度なのですよ。

乃々花

(……私がまごまごしてたせいで、そんなふうに思わせちゃってたんだ……!?)

乃々花

ち……違います! 本当に本当に、相馬さんが悪いってわけじゃないんです!!

海里

……? 王子さ――

乃々花

すぐに『体調が悪い』って伝えていればよかったのに、怖くて隠してたから……!

海里

……怖い?

乃々花

…………あっ!

本音を漏らしてしまって一瞬言い淀むけど、ここまで言ってしまった以上、隠しても意味はないだろうし……私は正直に打ち明けることにした。

乃々花

実は……昔から、男の人が苦手なんです……

海里

……男性が苦手……

乃々花

はい。それでどうしても、相馬さんに相談しづらく感じてしまって。

乃々花

でも、相馬さんが親身に対応してくださってるのは、ちゃんとわかってるんです!

乃々花

だから、相馬さんが悪く思うことなんて全然ないんです。私が悪いんです。

海里

……そうだったんですね。

海里

そういえば最初に来店された時も、少し様子が変だなと……

海里

ご友人に登山を勧められたものの、気が乗らないのかと思っていたのですが、私が原因だったのですね。

乃々花

え、えっと……登山に乗り気じゃなかったのもあるし、男性が苦手なのもあるしで……両方でした。すみません……。

海里

いえ、王子さんが悪く思われることはないのですが……

海里

あの……うちの店では、お客さまに主に対応させて頂く担当を決めていまして、王子さんや葉月さん、南さんは私が担当させて頂いているんです。

乃々花

あ……それで、今も相馬さんが私の手当を?

海里

ええ。ですがそういったご事情でしたら、担当を星野に変更することもできます。

乃々花

…………。

乃々花

いえ……。こんなの私の勝手なんですから。このままで大丈夫です。

海里

ですが……

乃々花

いつまでも男性が苦手だって避けてるわけにもいかないのもわかってるんです。

乃々花

だから……相馬さんがいいのなら、このままでお願いします。

海里

…………

海里

……ありがとうございます、王子さん。それでは、今のままで。

気付けば、話している間に手当はすっかり済んでいた。

傷の上には絆創膏が貼られ、相馬さんはてきぱきと道具を片付け立ち上がる。

海里

痛みや、体調はいかがですか?

乃々花

大丈夫です。ありがとうございます、相馬さん。

乃々花

座ってたおかげで、体調も良くなりましたし。

海里

よかった。もしまた具合が悪くなるようでしたら、遠慮なくおっしゃってくださいね。

海里

それでは行きましょうか。

皆のもとに合流しようと、私達は歩みを再開する。

でも……やっぱり空気はどこか気まずいものだった。

乃々花

(うう……それはそうだよね。仕事とはいえ相馬さんは親切にしてくれてたのに、『あなたのことずっと怖がってました』って言っちゃったんだもん)

乃々花

そ、相馬さん。……本当に、さっきのは気にしないでくださいね。

海里

え……

乃々花

男性が苦手って言っても、そんなひどいことをされたとかじゃないんです。

乃々花

小さい頃にからかわれたのを、根に持ってる……って言うと違うんですけど。

乃々花

でも、男の人と話したりすると、つい色んなことを思い出しちゃって。

私はぽつぽつと、小学校の頃のことを打ち明けた。

乃々花

……だから具合が悪いって言えなかったのは、男性の相馬さんに声をかけづらかったのもあるけど、ノロマとか運動音痴とか、周りの人に思われるのが恥ずかしかったのも大きくて……

海里

…………

乃々花

でも、びくびくしたり人の目ばかり気にしたせいで、心配や迷惑をかけてしまって本当にすみません……。

乃々花

からかわれたことだって、人から見れば大したことじゃないってわかってるんです。それなのに――

海里

――そんなことはない。

乃々花

(……えっ)

海里

よくあることだから、相手も子供で悪気なかったんだからと、そんな理由で、自分がつらかったこと、今もつらいことを否定する必要はないんだ。

乃々花

(………………んっ?)

違和感を覚えたものの、何が今までと違うのか一瞬迷ってしまうくらい、相馬さんの口調の変化は自然なものだった。

――だけどきょとんとしている私に気付いて、彼がはっと口元を手の甲で押さえる。

海里

……………! わ、悪い。いや、申し訳ありません。

乃々花

いえ、その……気にしないでください。相馬さんの方が歳上ですし。

海里

そういうわけには……。

相馬さんは気恥ずかしそうに首を振って、ひとつ咳払いをする。

海里

失礼いたしました。つい、妹と話しているような気分になって。

乃々花

妹? 相馬さん、妹さんがいらっしゃるんですか。

海里

……ええ。

海里

私の妹も小学生の頃、よく同級生にからかわれて、泣いて帰ってくることがあったんです。

海里

少し病気がちで、保健室で休むことが多かったり、よくあるゴミ拾いなんかの行事を免除されたりしていたので……

海里

『保健室に住んでるんだろ~』とか、『仮病でサボっているんじゃないか』とか、一部の生徒から、色々意地悪を言われることもあったようです。

乃々花

……それは……きっと、つらかったでしょうね。

海里

ええ……。危害を加えられたりするような酷いいじめではなかったのですが、その分周囲も、『そのくらいで』『よくあることだ』とあまり真剣に取り合ってくれなかったようで。

海里

だけど子供の頃って、自分が小さい分、他のものが何でも大きく感じるでしょう。

海里

大人からしたら『やんちゃな男の子』でも、大人しい女の子からしたら、『乱暴で逆らえない怖い人』に見えてしまったり。

海里

相手は軽い気持ちで言った悪口でも、自分の全部を否定されたような気分になってしまったり……。

海里

真面目な子ほど、相手の言動を真剣に受け止めてしまって、深く傷付くんですよね。

海里

聞き流すことも、言い返すことも、逃げ出すこともできなくて、毎日通う学校で、毎日からかわれて嫌な思いをして……。

海里

もちろん、世の中は思い通りにいかないことも多いですし、苦しい経験をしたり、それを自分で対処できるように成長するのは大事だと思います。

海里

でも、よくあることなんだから傷付くのはおかしいとか、そういうふうに否定はしたくないんです。

乃々花

(……相馬さん……)

乃々花

……優しいんですね。

お世辞のつもりではなく、ふいに口から滑り出た言葉。

相馬さんは少し目を見張った後、穏やかに苦笑した。

海里

なかなか気付いてあげられなかったんです。妹も、つらいのを隠してしまう方で。

海里

泣いて帰ってきた時も、最初は先生に怒られたからとか、転んだから、なんて嘘をついていたんです。

海里

でもある日、本当のことを打ち明けてもらって……

海里

話を聞いて私が妹より怒っていたら、おかしそうに笑っていました。

海里

私も子供でしたから、何をしてあげられたわけでもないんですけど。

海里

つらいのを少しでもわかってくれる、味方がいる……それだけでちょっと安心できたと、妹が言っていました。

ふっと、相馬さんが私を見て微笑む。

海里

私は味方ですよ、王子さんの。

どうしてか、どきっと心臓が跳ねた。

乃々花

あ……ありがとうございます。

汗の滲む肌を風が撫でて、涼しさを心地よく感じる。

海里

ああ、もうすぐです、掬星台。展望を楽しみにしていてください。

乃々花

はい……。

私にペースを合わせてくれる相馬さんを見上げながら、ふっと息を呑んだ。

乃々花

(……あれっ、私……)

いつの間にか、緊張せずに彼と目を合わせている。
相馬さんが男性だということを意識せずに、普通に話せている。

それは彼が妹さんの話をしてくれたおかげなのかもしれない。

乃々花

(私は一人っ子だけど……)

乃々花

(もしお兄さんがいたら、こんな感じだったのかな)

乃々花

(そうしたら……もうちょっとは、男の人を平気になってたかもしれないなぁ)

そんなことを想像してみたりしながら……
私は顔を上げて、相馬さんの後を歩いていった。