坂の上の異人館
~5話~

【==== 山広場 ====】

真緒

乃々花! こっち、こっち。

琴子

大丈夫だったかい?

乃々花

真緒、琴子。うん、平気だよ。

相馬さんと一緒に掬星台へ到着すると、木陰にシートを広げたふたりが手を振ってくれる。

他の人達はそれぞれに昼食を始めているけれど、真緒と琴子は私を待ってくれていたみたいだ。

乃々花

心配かけちゃって……それに、遅くなっちゃってごめんね。

真緒

ううん。相馬さん、ありがとうございました。

海里

いえ、こちらこそ注意が行き届かず申し訳ございません。

海里

ただ怪我の方は軽いものでしたので、ご心配いりませんよ。

琴子

それはよかった……。のの、お箸とか持てそうかい?

乃々花

ちょっとした擦り傷だけだから大丈夫。そんなに痛みもないし。

そう話していると、星野さんもやってきて私を気遣ってくれた。

星野

王子さん、怪我は大丈夫でしょうか?

乃々花

はい。お騒がせしてしまってすみませんでした。

星野

いえ……! 先に昼食を始めてしまって、こちらこそすみません。

乃々花

いいんです。私のせいで皆さんを待たせるのも申し訳ないですし、時間のこともあるでしょうし。

乃々花

私達も予定時間内に昼食が終わるよう、すぐ食べちゃいますね。

星野

ありがとうございます。でも昼食休憩は長めにとってありますので、ゆっくりしてくださいね。

私の様子を確かめると、相馬さんと星野さんはこの後の打ち合わせがあるのか、「失礼します」と丁寧に頭を下げて離れていった。

琴子

……じゃあ私達も食べようか。

乃々花

あっ、うん、そうだね。転んだ時に、お弁当崩れちゃってないかなぁ。

真緒

今日は何詰めてきたの?

乃々花

えっとね、カレー味の唐揚げと、梅を練り込んだ卵焼きと……

明るい空の下、きらきらと揺れる木漏れ日に包まれてお弁当を開く。

琴子

……そういえばのの、さっきは流れで相馬さんとふたりきりになっちゃってたと思うけど、問題はなかったかい?

乃々花

ん……うん、何もなかったよ。普通に手当してもらって……

真緒

緊張したり、逃げ出したくなったりしなかった?

乃々花

我慢できたよ。それに後の方は、あんまり気にならなくなってたし……

真緒

…………。

琴子

………………。

乃々花

……な、何? そんなにじっと見て。おかず交換する?

真緒

するけど、そうじゃなくて……

琴子

まあまあ待った待った。あまりつつきすぎると、伸びかけた芽を摘んでしまうことにもなりかねない。

琴子

ここは少し見守ろうじゃないか、真緒。

真緒

ん~……。それもそうだね。きっかけにでもなればいいけど。

乃々花

(…………???)

ふたりが何の話をしているのかわからず首を傾げてしまうけれど、その話題は終わったらしいので、大人しくお弁当へ集中することにした。

わいわいとご飯を食べていると他の参加者さんにも話しかけられて、おかずやおやつを交換したり、軽い雑談をしたり。

参加者の男性

へー、王子さん達はみんな同じ短大なんだ。

乃々花

は、はい、そうなんです。

男性の参加者さんともちょっとだけ勇気を出してお喋りすることができて、転んだ時の落ち込んだ気持ちも、だんだんと薄れていった。

乃々花

すごーい……

琴子

壮観だねえ。

真緒

なんか、感動しちゃうくらい……

食事を終えても少し時間が余っていたので、私達は改めて掬星台からの眺めを楽しむことにする。
北野町だけでなく神戸市全体、そして遠くには大阪湾が見えた。

澄み渡った空にはふっくらした雲が浮かび、都市に影を落としている。

私達の町。皆が住んでいる町。
視界いっぱいに広がる町並みの中で、たくさんの人が一生懸命生きているんだ。

額に涼しい風を受けながら、そんな当たり前のことになんだか愛おしさが湧いてくる。

乃々花

(……ここに来られてよかったな)

乃々花

(結構きつかったし、迷惑もかけちゃったけど……)

乃々花

(自分の足で登ってきて、この景色を見られてよかった)

真緒

……乃々花、記念写真撮ろうか! この景色をバックにさ。

乃々花

そう……だね! 私も撮りたい! じゃあ、誰かに撮影をお願いして……

星野

よろしければ、私が撮りましょうか?

振り向くと、星野さんと相馬さんが私達の方へ歩いてきていた。

海里

展望を楽しんで頂けているようで何よりです。

乃々花

は、はいっ。とっても素敵です!

真緒

それじゃあすみませんけど、あたしのデジカメでお願いできますか?

星野

ええ、お借りしますね。……では皆さん、並んでください~。

琴子

のの、真ん中おいで。

乃々花

えへへ……失礼しま~す。

海里

……ふふ……

皆が一通り昼食や休憩を終えると、相馬さんと星野さんは各グループを回って、忘れ物などはないか、体調が悪い人はいないかなどを確認しているみたいだった。

真緒

乃々花も琴子も、出発の準備OK?

琴子

ああ。ゴミなんかも全部回収したしね。

乃々花

…………。

真緒

……乃々花? どしたの、ぼーっとして。

琴子

もしや、相馬さん達の方を見ていたのかい?

乃々花

あ……うん。実は……

真緒

ほほう。つい気になって目で追ってしまう、と。

乃々花

……そうなの。だって……

乃々花

星野さんって元気で明るくて、すごく素敵な人じゃない?

真緒

…………う、んん? そっち?

乃々花

……? 『そっち』って?

琴子

いい、いい、気にしなくて。で、星野さんが何だって。

乃々花

だから、あんな人になりたいな~って思ってたの。

琴子

ふむ……。

真緒

……ま、いっか。そろそろ出発の時間だし、行こう、乃々花。

乃々花

うん!

よいしょとザックを背負って、相馬さん達のところへ足を向ける。
帰りの道のりは、最初とは逆に星野さんが先頭で相馬さんが最後尾につき、彼は列の後ろの方にいる私の様子も見てくれているようだった。

見守ってもらえていることに安心もするけど……
でもやっぱり、手間をかけさせてしまっているなあと心苦しくもある。

そうすると自然、視線は先頭できびきび歩く、しなやかな星野さんの姿を見つめてしまった。

乃々花

(相馬さんも、小さい頃のことでもつらかったのはわかる、否定しなくていいとは言ってくれたけど……)

乃々花

(だからってずっとその思い出を言い訳にして、成長しないままでいるのはよくないよね)

乃々花

(一応、こうして講習会に参加して、一歩目は踏み出せた……と思うから)

乃々花

(もうちょっと頑張ってみたいな)

乃々花

(それでいつか……星野さんみたいに、健康的で綺麗な女の人になれたらいいな……)

北野坂

真緒

乃々花、今日はホントにごめん。バテてるの、気付いてあげられなくて……

琴子

本当に悪かったね。

乃々花

いいのいいの、黙ってた私が悪かったんだから、気にしないで……!

無事に解散となり、私達も家に戻る帰り道。

あの時転んだ本当の理由は話してあったので、ふたりは改めて謝ってきたけれど、私はぶんぶんと首を振った。

乃々花

山歩きするの、思ってたよりすごく楽しかったよ。

乃々花

見晴らしもよかったし、外で食べるお弁当も美味しかったし、汗をかくのも気持ちよかった。

乃々花

また次があったら、行ってみたいな。

琴子

……そうかい? 無理してない?

乃々花

してないよ! 本当に、そう思ってるから。

真緒

……そっか。それならよかった。

真緒

また予定合わせて一緒に行こうよ。

乃々花

うん! 私、次の講習会がいつか調べておくね。

琴子

やあ、ののクンがこんなに前向きになるとはね。

顔を見合わせる琴子と真緒も、明るい表情の私を見て喜んでくれているみたいだった。

乃々花

(……うん! やっぱりこれで終わりじゃなくって、できるだけ続けてみよう)

乃々花

(体力つけて、勇気も出して、一人前の女の人になるんだ……!)

それから私は自分を鍛えようと、日常のちょっとしたことからトレーニングを始めてみた。

エレベーターと階段があったら階段を選んでみたり、電車に乗る時は席に座らず立ってみたり。

北野坂

そんな今日は、午前中の勉強会があって大学に行った帰りだったのだけれど、
行きはひとつ手前の駅で下りて歩いたように、家の最寄り駅の手前で下りて帰宅しようと挑戦してみた。

乃々花

(そういえばこっちの方って坂がきついからって、あんまり登ったことなかったよね)

乃々花

(急いで帰らなきゃいけないってわけでもないし、ちょっと散策してみようかな)

……しかしその挑戦は、今の私には荷が重かったらしい。

乃々花

(う……。……あれ……?)

9月に入ったばかりの太陽はまさに『残暑』という感じて辺りを照りつける。

蒸し焼きにされるような気温の中……だんだんと私の足取りは重く、呼吸は荒くなってきてしまっていた。

乃々花

(また、私ってば……! どれだけ体力ないのよ……)

建物の陰に入って深呼吸をし、どうにか落ち着こうとするものの、遅かったみたい。

目の前がちかちかしてきて、私はその場にしゃがみこんでしまった。

乃々花

はー、はー……

必死で荒い息をしていると……

???

――もし、そちらの方。

???

お体の具合でも……?

乃々花

えっ……

男の人の声が聞こえて、のろのろと頭を上げる。

……そして不安定な視界に映ったのは、お坊さんらしい若い男性だった。

彼の表情が柔らかくて、とても親しみのある雰囲気だったからだろうか。
相手が男の人なのに私は少しもびくびくすることもなく、素直に頷く。

乃々花

はい、暑さでちょっと目眩が……。でも、大したことは――

お坊さん

それはいけません。少々お待ちくださいね。

彼は言うが早いか、近くの自販機でスポーツドリンクを買って手渡してくれる。

乃々花

すっ、すみません! お代を……

お坊さん

いいえ、気になさらないでください。袖すり合うも他生の縁と申します。ささ、まずは水分補給を。

乃々花

……はい、ありがとうございます。

蓋を開けてよく冷えた中身を喉へ流し込むと、すうっと体が楽になっていく気がした。

乃々花

はあ……。…………ふう……

乃々花

少し……楽になってきました。

お坊さん

……ですがまだ、全快とはいかないようですね。

乃々花

……そ、そうかもしれません。

乃々花

(まだ、ちょっと気分が……)

乃々花

(また変に平気な振りをしても講習会の時みたいに、迷惑をかけちゃうだろうし……)

お坊さん

お嬢さん、ご自宅はこの近くですか?

乃々花

いえ、まだ結構歩くんです。でも、バスかタクシーを使えば……

お坊さん

しかしその様子では、待っている間に悪化してしまいそうですよ。

お坊さん

私の寺が近くであればぜひお休み頂くところなのですが、あいにく少し遠方でして……

お坊さん

よければ、近くの喫茶店にでもいかがですか? そこでしばらく休憩を――

そう言ってお坊さんが、私に手を貸そうとしてくれた時だった。

???

――どうしたんだ、明了。病人か?

お坊さん

おや……

乃々花

(……!? この声って……)

聞き覚えのある響きに驚いて、私は迂闊にも勢いよく立ち上がってしまった。

――案の定ふらついてしまったけど、大きな手が腕を引いて支えてくれる。

海里

危ない、無理をするな――

海里

……って、王子さん?

乃々花

やっぱり、相馬さん……!

お坊さん

……おふたりとも、お知り合いなのですか?

海里

あ、ああ。うちの店でやってる登山の講習会に参加してくださったお客さまだ。

お坊さん

なるほど。……こちらの方は王子さんとおっしゃるのですね。

お坊さん

そうだ、申し遅れました。私、浄恋寺の住職をしております、玄宗院 明了と申します。

明了

海里とは昔からの知り合いなのですよ。

明了

……ところで海里、王子さんは体調が優れないようで……

海里

お前に言われなくてもわかってるよ。

相馬さんは以心伝心というように最後まで言わせず、口調を改めて私へ向き直った。

海里

王子さん。ここから私の家は近いので、よければ休んでいかれませんか?

乃々花

……えっ!

海里

親しくもない男の家に上がるのは気が進まないかもしれませんが……

乃々花

い、いえ……! そういうことを気にしているわけでは……

乃々花

(……でも、無理してひとりで帰ったら、途中で倒れちゃいそうな気もする……)

乃々花

(講習会の時も今日も、お世話になってしまうのは申し訳ないけど……)

乃々花

あの……

乃々花

本当に申し訳ないんですが、少しだけ、お邪魔させて頂いてもいいですか?

海里

もちろんです。

相馬さんは快諾してくれた後、何か考えるように短い沈黙を挟む。

海里

……嫌でしたら、すぐにおっしゃってくださいね。

乃々花

え……?

乃々花

だ、大丈夫です。ありがとうございます、本当に……。

海里

いえ。では、家はこちらですので。

明了

海里、私も付き添っていいですか?

海里

ああ、そうしてくれると助かる。ふたりだと王子さんも気を遣うだろうしな。

海里

だがあまりくだらない話でうるさくして、彼女に負担をかけるなよ。

明了

くだらない話とは失礼な。いくら本当のことでも、言っていいことと悪いことがあるでしょう。

海里

……ところでお前、寺から歩いてきたのか? いつもの北野流星号はどうした。

明了

人のスクーターに勝手な名前をつけないように。愛車は今母に貸しておりますので。

明了

歩いてゆっくり来たからこそ、王子さんのピンチに居合わせられたのでよかったですね。

明了

あ、王子さん、お荷物お持ちしますよ。

乃々花

わっ、すみません……ありがとうございます。

海里

まぁ、明了がいて助かったのは確かだな。俺も目立つお前がいなかったら王子さんに気付けなかっただろうし…

彼は気軽に、住職さんと言葉を交わす。

乃々花

(…………)

乃々花

(……なんだか……)

お店にいる時や講習会の時とは全然違う相馬さんの姿。

ううん、私が小さい頃の思い出を打ち明けた時にも、ほんの少しだけ垣間見たけど……

乃々花

(相馬さんって、こんな顔もするんだなぁ……)

私はふたりのやり取りにぼんやり聞き入ってしまいながら、相馬さんのお家への道をゆっくり進んでいったのだった。