坂の上の異人館
~3話~

乃々花

いい天気……。

真緒

だねえ。

琴子

きっとののクンが一歩踏み出そうとする今日を、お天道さまも祝福してくれてるんだよ。

あっという間にやってきた、初心者講習当日――

真新しいウェアに身を包んだ私は真緒と琴子と待ち合わせ、期待と心細さを同時に抱えながら、講習会の集合場所へ向けて出発した。

公園

王子公園駅前近くの公園。

そこには既に、相馬さんともう1人のガイドさん、そして他のお客さん達数人も集まっていた。

琴子

おはようございます、相馬さん。

乃々花

お、おはようございます。

真緒

今日はよろしくお願いします!

海里

ああ、おはようございます、高峰さん、王子さん、南さん。

海里

改めまして、本日はご参加頂き誠にありがとうございます。

近寄っていった私達に気付いて、相馬さんは手元の参加者リストにチェックを入れる。

すると横にいたガイドさんも、こちらに笑顔を向けてくれた。

女性ガイド

本日はわたくし星野と、相馬がガイドを務めさせて頂きます。よろしくお願いいたしますね。

乃々花

あっ……。

真緒

この前ショップに行った時、最初に対応してくださった店員さんですよね?

星野

わあ、覚えててくださったんですか。

ガイドさん……星野さんの朗らかな応対に、ちょっぴり緊張が解けていく。

少し待っていると、老若男女十名ほどの参加者は遅刻もなく全員揃ったようで、相馬さんと星野さんは改めて皆の前に出て挨拶をした。

海里

皆様、本日はご参加頂き本当にありがとうございます。

海里

本講習会のガイドは相馬と星野で担当させて頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします。

星野

それでは本日の予定について改めて説明いたしますので、事前にお配りした小冊子を……

2人は手際良くスケジュールをおさらいすると、私達の格好や持ち物に問題がないかを確認しつつ、改善点があればアドバイスしてくれた。

だけど必要な物や注意事項は貰った小冊子にもわかりやすくまとめてあったから、大きな問題もなく、スムーズに準備は進んでいく。

海里

それでは続いて、登山前の準備運動です。一度荷物を下ろして、少し広がってくださいね。

星野

最初は腕から。私達の動きを真似してください。まず右手を……

海里

はい、お疲れ様です。皆さん、十分体が温まったようですね。

星野

それじゃあ、登山口まで歩きましょう~!

乃々花

わあ~……

乃々花

(いよいよ始まっちゃうんだ……)

相馬さんと星野さんが先導するのを追い、私達も列の前方に入ってついていった。

【==== 山道 ====】

海里

ここからが登山道になります。迷いにくいルートではありますが、はぐれないようにご注意ください。

海里

星野さんは最後尾についていてもらえますか?

星野

はい。それでは皆様、相馬について進んでくださいね。

乃々花

……うわ~……

琴子

あはは。さっきからのの、わーとかうわーしか言ってないよ。どうだい、今のお気持ちは。

乃々花

なんだか、ふわふわした感じ……。

真緒

ふわふわ?

乃々花

本当に私、山登りしてるんだなって思うんだけど……でもあんまり実感がないというか……

乃々花

買った靴とか服とかも、見下ろすとまだちょっとびっくりするの。人の服を借りてるみたい。

真緒

普段乃々花が着るタイプの服じゃないもんね。新品だからまだ体に馴染んでないし。

琴子

そう心配することはないよ。いま登ってる、この……

真緒

摩耶山。このルートは上野道って言うんだよね。

琴子

それだ。その上野道ってやつは、整備もされていて子供でも気軽に登れるそうじゃないか。

真緒

実際、参加者に小学生くらいの子もいるしね。

乃々花

そうだよね……。私でも、きっと大丈夫だよね。

真緒

うんうん。それにすごく眺めがいいらしいよ。

琴子

山頂に近い掬星台(きくせいだい)って所からの眺めは、日本三大夜景と評判だそうだ。

琴子

いずれ乃々花の男性恐怖症が治って恋人ができたら、夜にカップルで来るのもいいんじゃないか?

乃々花

え!? ……そ、そんなことまで今はまだ考えられないよ。

琴子

『今はまだ』……

真緒

へ~え、『恋人なんて作らない』とか『デートでまで登山なんて絶対嫌!』とか言うと思ったのに。

琴子

まんざらでもないみたいだねぇ。

乃々花

もうっ、からかわないでよふたりとも……!

わいわいと話しながら、登山道をゆっくり辿っていく。

整えられた地面は歩きやすいし、まだ慣れないウェアも、軽くて着心地はいい。

乃々花

(それに、木漏れ日が綺麗だな。風も涼しいし)

乃々花

(空気も爽やかで、土と草の匂いがして……)

足音や、葉擦れの音や、皆が話す声。色んな音が混じり合って、柔らかなざわめきを作っていた。

乃々花

(……結構、いいかも)

山に入るのは小学校の登山遠足以来だったから、どこか懐かしいような気分にもなってくる。

海里

あ……皆さん、ご覧ください。

しばらく歩いていると、ふと相馬さんが皆の注意を引いた。

海里

そこに咲いている花は「マヤラン」と言って、この摩耶山で発見された絶滅危惧種の花なんです。

参加者の男性

へえ~、これが……。

海里

マヤランは葉緑素をほとんど持っていないので、光合成ができないんです。ほら、葉がないでしょう?

参加者の女の子

本当だ! そういえば、葉っぱがないね~。

乃々花

(……あっ。これ、植物図鑑にも載ってた気がする。確か……)

乃々花

――『腐生ラン』って言うんだっけ。

海里

ん……?

乃々花

(……! しまった、つい声に……)

話しかけるつもりはなかったから、動揺して口元を覆う。

……だけど相馬さんの声は、少し楽しげな響きになった。

海里

よくご存知ですね、王子さん。

乃々花

あ、いえ、そんな……。

海里

自分で光合成のできないマヤランは、キノコの仲間である菌と共生して、菌から栄養をもらっているんです。

海里

そういった植物は『腐生植物』と呼ばれていたのですが、最近は生態をより正確に表すため、『菌従属栄養植物』と呼ばれているようですね。

乃々花

(そうなんだ……。あの植物図鑑、古い本だもんね)

乃々花

(でも相馬さんって、山の植物にも詳しいんだなぁ)

……それからも彼は珍しい植物や綺麗な花があると時々足を止め、わかりやすく説明してくれた。

私にとってはちょっとした休憩にもなってありがたいし、それに……

乃々花

(この花も知ってる!)

さっきみたいに相馬さんの説明を邪魔しちゃいけないからこっそりとだけど、図鑑で見覚えのある植物があれば内心ではしゃいでしまっていた。

乃々花

(図鑑の写真だと、もっと小さいイメージだったけど……実際に見ると結構大きくて華やかなんだ)

……ますます懐かしさがこみ上げてきて、じんと胸が熱くなる。

小学校校庭

悠人

きみ……えっと、乃々花ちゃんも見学?

小学生の乃々花

うん。ちょっと熱があるから、体育の授業は見学させてもらいなさいって、お母さんが。

悠人

僕も今日は具合が悪くって……。本当は参加したいんだけど。

そう言って悠人くんは、体操を始める皆を羨ましそうに眺めていた。

悠人くんもあまり体が丈夫じゃなかったみたいで、体育の授業をお休みすることも多かったけど……
彼は私と違って、アウトドアに憧れを抱いているようだった。

悠人

うちのお父さん、キャンプが好きなんだ。

悠人

僕も体を鍛えて丈夫になったら、お父さんと一緒に山に登って、テントに泊まったり、川で釣りをしたりしてみたいなぁ……。

【==== 山道 ====】

悠人くんから貰った植物図鑑に挟まっていた、リンドウの栞。

そこには『新しい学校でもがんばってね』と書き添えてあって……
丁寧な文字から、『僕もがんばるよ』という思いが伝わってくるようだった。

乃々花

(悠人くん、今どうしてるんだろう)

乃々花

(大きくなって、体も丈夫になって、私達みたいに山の景色を楽しめてるのかな?)

乃々花

(そうだといいな……)

参加者の男の子

あ……ガイドさん、あそこに咲いてる花はなんていう名前?

海里

あれは、フサフジウツギですね。香りもいい花ですよ。

参加者の女性

本当ですね、いい匂い……。

乃々花

(この花も図鑑で見たことある! 写真より、本物はずっと色が鮮やかだ……)

琴子

楽しそうだねえ、のの。記念に写真撮ってあげようか、花と一緒に。

乃々花

え……ほんと? ……じゃ、じゃあ、お願いしちゃおっかな!

真緒

あたしも撮っとこ。ほら、笑って笑って~。

海里

……急がなくて構いませんので、皆さんゆっくりご覧になってくださいね。

その後も私は、最初に『登山』と言われた時の拒否感はどこへやら、豊かな自然や道々の景色をすっかり満喫していた。

…………でも、そう簡単に上手くいきはしないもので……。

【==== 山道 ====】

乃々花

(…………)

乃々花

(……う……)

だんだん強くなってきた陽射しのせいなのか、
それとも昨日、何となく不安であまり眠れなかったせいなのか……

足の重さや息苦しさが強くなり始め、私は心の中でかなり焦っていた。

乃々花

(階段は多いけど整備された道だし、進むペースはゆっくりだし)

乃々花

(他の参加者の人たちはぴんぴんしてるのに、私って……)

思った以上の自分のひ弱さにガックリしてしまう。

乃々花

(……どうしよう。休憩させてほしいって言ってもいいのかな)

乃々花

(だけど私ひとりのために皆を止めちゃうのも……)

相談してみようかと、左右の琴子と真緒へ視線を送る。

しかし……

琴子

えー! 先月の公開録音行かれたんですか! 羨ましい……!

参加者の男性

そう、彼女と一緒に。何なら彼女の方が俺よりリスナー歴長いんすよね。

琴子

うわあ、それも羨ましい。私の彼氏はラジオとか全然興味ないみたいで……

琴子は他の参加者の人と趣味が合ったのか、マニアックな話をしているし。

真緒

へえ、今度お孫さんが北野にいらっしゃるんですか!

参加者の老婦人

そうなのよ、わざわざ北海道から出てきてくれてね……。

参加者の老紳士

あの子の趣味が山登りで、一緒にハイキングにでも行こうって誘われたんだよ。

真緒

それで講習会に参加されたんですね。いいなあ、きっと素敵な思い出になりますよ。

お年寄りと接するのが好きな真緒も、すぐ後ろを歩いていたご夫婦と盛り上がっているし。

参加者の男の子

ガイドさん、あっちにいる鳥はなんていう鳥?

海里

そうですね、あれは……

先頭にいる相馬さんも、男の子と何やら話しているみたいだ。

乃々花

(どうしよう、話しかけづらいし……そもそも、恥ずかしい……)

小さい子やお年寄りも元気に歩いているのに……と情けなさが滲んできて、つい荒くなりそうな呼吸を抑えて平気なふりをしてしまう。

それでもまだ、近くにいたのが女性ガイドの星野さんだったら、声をかけていたかもしれない。

でも全然悪い人なんかじゃないと頭ではわかっているのに、どうしても相馬さんの広い背中には話しかけづらくて……

琴子

――の。……のの?

乃々花

………………えっ!? あっ、ごめんね、呼んでた?

琴子

ああ。もうしばらく歩いたら掬星台に着いて、昼食になるみたいだから。

真緒

きっといい景色なんだろうな~。そこでお弁当広げるなんて最高じゃん。

乃々花

う、うん! 楽しみだね!

心配をかけないように平静を取り繕おうと、大げさに頷いてみせたのが悪かった。

乃々花

(――あっ――)

一瞬、くらりとめまいがしたかと思うと……

【==== 山道 ====】

真緒

乃々花!?

琴子

のの――

乃々花

――痛っ……!!

私は地面の凹凸に足を取られ、皆が見ている中で派手に転んでしまったのだった……。