坂の上の異人館
~6話~

北野坂

乃々花

はあ、ふぅ……

海里

すみません、王子さん。この坂を上り切れば着きますから。

明了

もう少しですよ。

乃々花

はい、大丈夫です。ごめんなさい、荷物まで持ってもらってるのに……

海里

いえ、気にしないで。……そこの家です。

急勾配の坂を登り、角を曲がった先。

坂の上の異人館

……そこにあったのは、不思議な雰囲気を持つ、お洒落な建物だった。

外壁は北野で『うろこの家』として親しまれているお屋敷と似ているけど、あそこほど『洋館!』という感じはせずに、門や置物からはどこか東洋風の香りが漂う。

乃々花

(この辺りに歴史のある洋館がたくさんあるのは知ってたけど、こういう建物があったんだ……。ていうか、ここが相馬さんのお家なんだ)

明了

王子さん。ここは元々、中国領事館として建てられたものなのですよ。

乃々花

中国ですか? それで、オリエンタルな感じが……。

海里

……見た目ではあまりわからないでしょうが、実は私の両親は華人――帰化した中国人でして。

海里

親の繋がりもあって、今は私がこの家に住んでいるんです。

乃々花

えっ! へえ、そうだったんですか……!

明了

生まれも育ちも日本なので、あまり中国語は得意でないそうですが。

海里

人の弱点を吹聴するんじゃない。……どうぞ、王子さん。

玄関の鍵を開け、相馬さんが中に入れてくれる。

【==== 坂の上の異人館屋内 ====】

乃々花

わあ……!

建物の中は、外観にも増して西洋と東洋が同居した内装になっていた。
でも、だからといって雑多さやごちゃごちゃした感じはなく、むしろすっきりと引き締まった、涼やかなデザインだと思う。

飾ってある絵画や美術品なんかも、とても価値のあるものだろうし風格や存在感も強いのに、お部屋全体で見ると上品に調和が取れていて、洗練された落ち着く雰囲気だった。

乃々花

(相馬さんのイメージと合ってるかも)

乃々花

すごく素敵なお家ですね……って、わわ……っ!

つい惚れぼれとしながら辺りを見回そうとしてふらつき、体調が悪かったことを思い出す。

海里

王子さん、どうぞそっちのソファーへ。横になって休んでください。

乃々花

は、はい、すみません。

乃々花

(うう、恥ずかしい……)

お言葉に甘えて横にならせてもらうものの、人のお家で、しかも男性2人の前で寝っ転がるというのはいたたまれない気分にもなってしまう。

するとそんな私の考えを察してくれたのか、相馬さんが住職さんに声をかけた。

海里

明了、そこの衝立ずらしてくれ。王子さん、見られてると思うと休みにくいだろうから。

海里

別室で休んでもらうと、万一容態が変わった時にすぐ気付けないからな。

明了

了解です。……王子さん、ゆっくり横になっていてくださいね。

乃々花

すみません……ありがとうございます。

住職さんが運んでくれた衝立で目隠しがされ、少し気恥ずかしさが和らぐ。

住職さんが買ってくれたスポーツドリンクがまだ残っていたのでもう一度喉を潤し、早く体調を治そうとそのままじっとしていると、衝立越しに彼らの会話が聞こえてきた。

海里

明了。冷蔵庫にレモンの蜂蜜漬けが入ってるから出しといてくれ。

明了

はいはい。塩も入れます?

海里

あー、だな。王子さんのと俺のと……仕方ないから、特別にお前の分も作ってやるよ。

明了

それはありがたいことで。

乃々花

(……何か飲み物を作ってくれるのかな?)

奥にあるらしい台所へ歩いていく足音や、食器棚からグラスを取り出しているらしい物音。

明了

……はっ!? こ、これは……

海里

どうした。

明了

なんてきめ細かく、緻密なレモンなのでしょう!

海里

………………。

明了

坊主もびっくり! 『はっ! 緻密レモン!』

海里

くだらないこと言うなっつったよな?

明了

脊髄反射で出てしまうので許してください。

海里

……お前のギャグは脳を使ってないからそんなにつまらないんだな……。

乃々花

(……へ~……)

まさに『男性の友人同士』といった感じの、遠慮のないやり取りを新鮮に感じる。

きっとありふれたことなんだろうけど、男性を避けてきた私には特に馴染みのないものだったから。

乃々花

(相馬さんも住職さんも歳上みたいだし、こう思うのも変かもしれないけど……)

乃々花

(なんだか、かわいいな)

お店や講習会での相馬さんは、優しいけど凛としていて、まさに『頭のいい大人の男性』というイメージが強かった。

明了

蜂蜜レモンとかけまして、み仏の教えと解きます。その心は……

海里

黙ってろ。

乃々花

(そ、その心は何なんだろう……)

だけど今の相馬さんの声は、呆れながらも子供みたいな無邪気さが滲んでいて、胸が温かくなるような、ほのぼのした気持ちになる。

海里

……よし、と。王子さん、ご気分はいかがですか?

乃々花

あ……! 大丈夫です。横になってたら随分楽になってきた感じで……

体を起こし、衝立から顔を覗かせる。

たぶん私の顔色は少し良くなっていたのだろう、相馬さん達がほっと頬を緩めるのがわかった。

海里

それでしたら、飲み物をどうぞ。気分がすっきりすると思いますよ。

乃々花

ありがとうございます! ぜひ、いただきます。

明了

では、私も……。

相馬さんと住職さんも近くの椅子に腰を落ち着け、冷たい蜂蜜レモンのグラスに口をつける。

乃々花

あ、ミントのいい香り……!

海里

レモンを漬ける時、一緒に入れておいたんです。

明了

これは美味しい。うちでも作ってストックしておきましょうか。

海里

……そういやお前、今日は何の用だったんだ?

明了

そうそう、借りていたDVDを返しに行こうと思っていたところだったんです。

住職さんが持っていたバッグから取り出したのは、カンフー映画か何かのようだった。

明了

とても面白かったですよ。話の中身やアクションももちろんですが、画面が綺麗で。

海里

……こいつの家、割と最近までビデオデッキが第一軍で活躍してたんですよ。

乃々花

ええっ! ……えっと、でも、うちのおばあちゃん家でもビデオデッキがまだまだ頑張ってますし……。

明了

か、勘違いしないでくださいね。DVDデッキがなかったわけではなく、しばらく前に壊れてしまったので、代わりに昔のビデオデッキで代用していただけで……

海里

で、通い妻が直してくれたんだよな。

乃々花

通い……?

明了

わー! わー! その話はいいじゃないですか!

明了

……ごほん。実は私は空手を、海里は八卦掌という中国拳法を学んでおりまして……

明了

他の格闘技からも学ぶことはあると、海里が私の道場へ見学へ来た時からの知り合いなんです。

海里

小6の頃だったか。……私は今はその道場には通っていないのですが、明了とは今も付き合いが続いていますね。

明了

たまに一緒に組手をしたり、お互い料理も趣味なのでレシピを交換したり……

明了

ナウでヤングで小粋なトークを楽しんだりしているんですよ。

乃々花

ふふっ、仲が良いんですね。

明了

親友です。

海里

腐れ縁です。

明了

…………。

海里

………………。

明了

マブダチです☆

海里

ただの知り合いです。

明了

どうしてランクダウンするんです……! 住職、ショック!

乃々花

あ、面白~い!

海里

王子さん、こいつを甘やかさないでください……。

苦笑する相馬さんに、私もくすくすと笑う。

甘酸っぱい蜂蜜レモンを飲み終えてしまうまでの間、私は相馬さんと住職さんと、ずっと楽しい気分でお喋りをしていた。

坂の上の異人館

乃々花

相馬さんも住職さんも、今日は本当にありがとうございました。長居してしまってすみません。

海里

いいえ、体調が良くなられたようで安心しました。

明了

本当にご自宅までお送りしなくて大丈夫ですか?

乃々花

はい、バスに乗って帰ろうと思ってるので……。気を遣ってくださってありがとうございます。

乃々花

あっ、それと、相馬さん……。

海里

はい?

乃々花

来週の講習会、また琴子と真緒と参加させてもらおうと思ってるんです。

乃々花

その時はこの前や今日みたいに、ご迷惑おかけしないようにしますので!

海里

……いえ……。王子さん、あまり無理はなさらないでくださいね。

乃々花

はい、頑張ります!

乃々花

……! もうバスが来ちゃう。あの、今日のお礼はまた改めてさせて頂きますね。

乃々花

今日は本当にありがとうございました! 失礼します……!

深くふたりに頭を下げてから、私は急いで最寄りのバス停へと向かう。

北野坂

体調不良はすっかり良くなり、駆け出す足取りはふわりと軽かった。

乃々花

(相馬さんと住職さんが色々気を配ってくれたおかげだと思うけど、今日もお話ししてる時、変に緊張したりしなかったな)

乃々花

(よし! こんな感じでもっと経験を重ねていって、体を鍛えながら男性苦手も克服しよう……!!)

坂の上の異人館

海里

……『無理しないでくださいね』に『頑張ります』って……

明了

心配そうですね、海里。

海里

すごく一生懸命で、いい方だとは思うんだが。危なっかしいというか……。

明了

……あの方の真っ直ぐさ、前向きさがいい方向へ進むよう、見守って差し上げてくださいね。

明了

王子さん、海里を信頼してくださっているようでしたから。

海里

……ああ、そうだな。

【==== 山広場 ====】

乃々花

……つ、着いたぁ……!

乃々花

今回は私、怪我しなかったよ! 転ばなかったよ……!

真緒

偉いぞ、乃々花~。

琴子

よく頑張ったな、よしよし。

――やってきた次回の講習当日、私は無事に山頂まで辿りつけたことに大感激していた。

とはいえ一般的にはごくごく易しい、前回と変わらないくらいの低山ではあったのだけれど……。

乃々花

(でも、皆からすれば小さな一歩でも、私にとっては大きな一歩だよ。嬉しいな……!)

海里

皆様、お疲れ様です。

星野

これから昼食休憩に入ります。出発の14時になりましたら、この場所にお集まりください。

今回もガイドとして付いてくれた相馬さんと星野さんが皆に呼びかける。

海里

それと今回は予定しておりました通り、私達で簡単な調理を行いますので、召し上がる方は後ほどお声がけくださいね。

乃々花

(そうだ。今日は相馬さん達が飲み物やパンケーキなんかを作ってくれるんだよね)

乃々花

ねえふたりとも、お昼食べる場所、相馬さん達の近くにしない?

乃々花

どうやって調理するのか見てみたくって。

真緒

いいね、そうしようか。

琴子

じゃあ、邪魔にならない辺りに……

適当な木陰にシートを敷いてお弁当を開いていると、相馬さんと星野さんも、色々と道具を準備し始めたようだ。

私達が見ているのに気付いて、説明もつけてくれる。

海里

今日コーヒーを淹れるのに使うのは、このシングルバーナーと、パーコレーターです。

星野

普通コーヒーを淹れるのにはドリッパーとかフィルターが必要ですけど、パーコレーターを使うとこれだけで一度に数人分コーヒーが作れるんですよ。

海里

その分、手間をかけて抽出したコーヒーより風味は劣りますが、便利さが強みですね。

海里

まずはバーナーを使って、お湯を沸かして……

手際よく相馬さんがコーヒーの用意を進めているうちに、隣では星野さんが別のバーナーを設置し、小ぶりなフライパンでパンケーキ作りを始めた。

乃々花

(へえ~、材料はあんなふうにビニール袋に入れて混ぜるんだ)

こうして横から見ているだけでも、なるべく少ない道具で済むようにや、ゴミを出したり周りを汚したりしないようにと考えられているのがわかる。

そうこうしているうちにコーヒーとパンケーキができあがり、私達も温かいコーヒーと、パンケーキ1切れを貰った。

乃々花

いただきます。

真緒

……ん、美味しい!

琴子

やっぱりできたては違うものだね。

乃々花

うん……!

乃々花

(この前掬星台でお弁当を食べたり、水筒に入れてきた温かいお茶を飲んだ時も美味しかったけど……)

乃々花

(でもやっぱり目の前で料理されたものは、一際特別に感じるよ)

乃々花

(山で料理をするとなると、どうしても道具が増えて荷物が重くなるから、今の私にはまだ難しいよね)

乃々花

(でもいつかは、私もあんなふうに山ごはんを楽しめるようになりたいなぁ……!)

琴子

……ふふ、にこにこしちゃって。

真緒

楽しそーで何よりだよ。

乃々花

えへへ……。ありがとう、ふたりとも。登山に誘ってくれて。

青い空の下、自然の匂いに混じって、コーヒーやケーキの香りが風に流れていく。

最初の頃からは考えられない自分の変化が嬉しくて……
私は温かなコーヒーに口をつけながら、胸の中までぬくもりで満ちるのを感じていたのだった。