【==== 山道 ====】
暑さのせいではなく、嫌な汗をかきそうになりながら……
しばらく待っていると、手元の携帯が鳴り出した。
電話に出ようとした直前、よく通る声が耳へと届く。
――王子さん、そちらですか。
あ……そ、相馬さん……!
乃々花! 大丈夫!?
すぐ行くからね……!
相馬さんは真緒と琴子と合流して、私を捜してくれていたらしい。
私の声と着信音を頼りにして、足音が近付いてくる。
……いた! 相馬さん、あそこです。
乃々花……!
おふたりとも、そのままで。王子さんもじっとしていてください。
私が落ちてしまった斜面は、崖というほど急ではないものの、4メートルほどの高さがあった。だけど相馬さんは生えている木を手がかりにして、身軽にこちらへ下りてくる。
そ、相馬さん……。あの、本当にすみません……!
いいんです。足の具合はいかがですか?
えっと……一応、大丈夫だと思います。自分で応急処置をしてる時も、酷い痛みはなかったので。
ゆっくりなら、自分で歩けます。その、無理して言ってるんじゃなくて……。
……では、こちらをお貸しします。なるべく足に負担をかけないようにしてくださいね。
相馬さんは自分のバッグを探ると、中から伸縮式の登山杖を出し、長さを調節して渡してくれた。
この場所はもう少し回り込むと、斜面が緩やかになっていますから。そこからなら道に戻れるでしょう。
高峰さん、南さん! おふたりはそのまま道を進んで頂けますか。しばらく先で合流できると思います。
はい、わかりました!
ゆっくり進みますね。乃々花、もうちょっと頑張って!
う、うん……!
……王子さんの荷物は私がお持ちしますので、ついてきてください。
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足を庇いながらも歩いていくと、相馬さんの言った通りに登山道へ戻ることができた。
のの、相馬さん!
無事でよかった……。
歩かれている様子も見ていましたが、そこまで酷い捻挫というわけではないようです。
ですが念のため、支えながら下山して頂いた方がいいでしょう。
皆さんの荷物は私が運びますから。
……! でも……
相馬さんも一緒に下山してくださるんですか?
もちろんです。ここで放っていくわけがないでしょう?
そ、相馬さん……ここまで連れてきてもらいましたし、もう大丈夫です。
相馬さん、下見で来られてたんですよね? お仕事の邪魔になっちゃいますし……
(これ以上迷惑をかけるわけには……)
…………
王子さん。私がいなくても絶対に無事で下山できるという自信はお持ちですか?
え……
下りは登りよりも、足に負担がかかりやすい。
痛めた足をかばいながらの歩きで、また転んだりしないと確約できますか。
王子さんがバランスを崩した時、支えようとする高峰さんと南さんを巻き込んでしまうこともあるのですよ。
それに、もしまた男性に声をかけられて、しつこくされるようなことがあったら対処できますか。
……あ……
もちろん、私がいれば何が起きても絶対安全だ……とまでは言えませんが、それでも何かあった時の危険は減らせるはずです。
王子さんだけの安全ではなく、皆さんの安全を考えてのことです。ご了承頂けませんか。
…………
相馬さんは決して怒鳴ったり、苛立ちを見せたりはしなかったけれど、
むしろ冷静な口調が私の浅はかさを浮き彫りにするようで、言葉を失ってしまった。
すみません……。どうか、よろしくお願いします。
当然のことです。……高峰さん、南さん、王子さんのものも含めてお荷物をお預かりします。
……はい、お願いします。
すみませんけど、頼みますね。じゃあ乃々花、掴まって。
それでは先導しますが、痛みが増すようなことがあればすぐにお伝えください。
相馬さんはなるべく歩きやすいようにと、私達が通ってきたものとは別のルートを案内してくれた。
……言葉少なに下山する間、何度か足の具合はどうかと聞かれたけど、
私は上手く相馬さんの顔が見られず、俯いて答えるばかりで……
まるで最初の頃に戻ってしまったみたいだ。
ちょっとずつは積み上がっていたはずの親しさが、今の空気からは全然感じられない。
(でも、それも当然だよ……。何度も注意されたのに、考えなしの行動を繰り返して……)
相馬さんの背中におどおどと怖気づきながら、私は足の痛みを堪えて歩くのに精一杯だった。
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アウトドアショップ店内
後日、改めてお礼とお詫びを伝えようとアウトドアショップに出向いた私を、応対してくれたのは星野さんだった。
相馬は、今日は戻らないんです。上級者向けのガイドに出ていまして。
……そうなんですね。
この前登山で足を痛めた時に、偶然同じ場所に来ていた相馬さんが助けてくださったんです。
お手数なんですけど、お礼の手紙とお菓子、相馬さんに渡して頂いてもいいですか?
あと、足はもうすっかり良くなりましたって伝えて頂ければ……。
わかりました、わざわざありがとうございます。必ずお渡しして、伝えておきますね。
相変わらず星野さんの笑顔は明るく健康的で、眩しかった。
彼女にお礼を言って、ショップを後にする。
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――それからまた時間は過ぎていったけれど、気まずくて次回以降の講習会に参加することはできなかった。
カフェ・ド・ミュージアム
お店に行って、話してくればいいじゃん。
私達が付き添った方がいいならもちろんついていくよ。
……ありがとう。でも、大丈夫。ちゃんとひとりで謝ってくるよ。
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北野坂
大丈夫だなんて、嘘だった。
何度もお店の近くまで行っては勇気が出ずに引き返し、日数だけが過ぎていく。
(ちょっとは成長できたかなと思ってたけど……)
(今でも私って、優柔不断で、臆病なままだ)
(謝らなきゃって思うのに、お店まで行くと足が動かない……)
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そうこうしているうちに夏休みの終わりも近付き、焦る気持ちと自己嫌悪ばかりが募っていく。
『彼』に再会したのは、そんな秋の香りがし始めた時期だった。
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住宅街
(あれ……)
買い物をした帰り道、通りかかったお寺の門に目を留める。
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浄恋寺
(『浄恋寺』って書いてある)
(確か……相馬さんのご友人の、住職さんのお寺だったよね?)
王子さんじゃないですか。こんにちは。
ひゃあっ……!?
思い出したばかりの人に突然後ろから声をかけられ、私は飛び上がりそうになった。
おっと……すみません、驚かせてしまいまして。ちょうど外出から戻ったところでして。
い、いえっ……こんにちは。私のこと、覚えててくださったんですね。
もちろんですよ。今日はお元気そうでよかった。どこかへお出かけですか?
ええ、もう用事は済んだんですけど……
…………
……何かお悩みでも?
にこりと彼が微笑む。
相馬さんと住職さんは全然違うタイプに見えるけど、こうやって些細な変化を読み取って手を差し伸べてくれるところは、似てるんだななんて思った。
……私……
…………あの、ちょっとだけ、相談させて頂いてもいいですか……?
もちろんです。私はそのために、ここにいるのですから。
さあ、中へどうぞ。
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【==== 浄恋寺境内 ====】
穏やかな陽射しが注ぐ縁側で、私は出してもらった自家製柚子ゼリーと、お茶を頂いていた。
隣では住職さんもゼリーを食べながら、「もうちょっと甘さを足した方が……」と首をひねっている。
静かで優しい雰囲気。
やっぱり相談するのやめますと言っても、住職さんは笑顔で、「じゃあ最近面白かったドラマの話でもしましょうか」なんて言うだろう。
そんな空気が逆に私の背中を押して、素直に口から相馬さんのことが滑り出ていった。
……それで、何度も心配をかけたりアドバイスしてもらったのに、また私が迂闊な行動をしたせいで、迷惑をかけてしまって……
…………
ずっと、直接会って謝らなきゃとは思うのに、呆れられたんじゃないかって考えると、どうしても勇気が出なかったんです。
……なるほど、そんなことがあったのですね。
はい……。すみません、すごく情けない話で。
いいえ、お気持ちはよくわかります。
失敗をしてしまった時、どんな顔をして相手に会っていいかわからなくなってしまいますよね。
相手が立派だったり、尊敬する方だったりするならなおさらです。
自分の浅慮が浮き彫りになってしまうような感じで、恥ずかしくて、心細くて……。
……! そう……そうなんです。
でも、私……。
温かい湯呑みを両手で包んで、気持ちのままに呟いた。
…………私、やっぱり、ちゃんと謝りにいこうと思います。
…………
このまま何もしないで、逃げちゃう方が楽だけど……
でもそれだと、今までと同じですもんね。
私、ずっとうじうじしてて……自分を変えようと思ったことは何度もあったけど、その度に、何度も失敗していました。
でも、今度はこのまま終わらせたくない。
もう相馬さんには呆れられちゃってて、謝っても取り返せなかったとしても……
このまま黙ってやり過ごすよりは、ずっとマシだと思うんです。
……ええ。そうやって前に進もうとされていること、とても素敵ですよ。
ありがとうございます。……あ、でも、すみません!
相談っていうか、勝手に愚痴を言って、勝手に解決してるって感じで……
きっと、それでいいのですよ。
私は全く、人より偉い人間でも立派な人間でもありません。むしろ無智無学な凡夫なのです。
そんな私が、生半可な考えから生み出した答えを人様に押し付けて、何になるでしょう。
私に話していて何か見えるものがあったのなら、それはもともと、王子さんの中にあったものなのです。
何もない私と相対される時、本当は皆さん、ご自分と対峙しているのかもしれません。
目を逸らさずに自分の弱い部分を見つめて、その中から美しい、前向きな気持ちを見つけ出す。
王子さんが本当にやりたいことは何なのか、本当はどうしたいのか、王子さん自身が一番よく知っているはずですから。
王子さんが選んだ答えを、私は応援しますよ。
住職さん……。本当に、ありがとうございます!
いいえ。それに海里も、また王子さんと仲良くできるようになったら喜ぶと思います。
あれも、別に王子さんのことを悪く思ったりはしていないはずですし。
そうだと嬉しいんですけど……
まあ、直接確かめてみるのが一番ですね。
はい……。早速この後、お店に行ってみて――
言いかけた時、住職さんの後ろで障子が開いた。
――何だ明了、人に留守番をさせておいて。帰っていたなら帰っていたと……
…………え?
――――ん?
私も……そして相馬さんも、お互いを眺めて絶句する。
時が止まったような中、住職さんだけがにこにこと、お茶を一口すすっていたのだった……。