【==== 絵画教室(夜) ====】
…………、……ちゃん。ねえってば、三咲姉ちゃん!
……!
制服のはしっこを軽く引っ張られて、あたしはどきりとして手を止めた。
あ……ご、ごめん、ボーッとしてた。何か用?
あたしに声をかけたのは、絵画教室にかよう小学生の男の子だった。
さっきセンセーから聞いたよ。三咲姉ちゃん、大学に合格したんだよね? おめでとーございます。
ああ……まあね。ありがと。
何とか笑顔を作ってそう答える。
……けれど、うまく笑えているかどうかあまり自信はなかった。
(……“この絵画教室を卒業する”)
数時間前に聞いたジュゼの言葉は、あたしの脳内に強く残っていた。
けれど、あたしの動揺はよそにその日も絵画教室は始まって、あたしは大学が始まるまでの課題用の資料を探すという名目で、教室のすみで画集などをめくっていた。
でも、結局何もできないまま時間だけ経っていて、ため息をつきつつ本棚に画集を戻す。
でもさぁ三咲姉ちゃん。絵描きって全然もうからないんでしょ?
えっ……!?
突然、やけに現実的な質問をされて、あたしはぎょっと目を見開いた。
男の子はあどけない表情のまま、悪気なく言葉を続ける。
お母さんが前にそう言ってたんだ。絵描きはすごく大変なんだって。
えっと……それは……。
……確かに、絵だけを描いて生活していくのは難しいかもね。
やっぱりそうなんだー。
…………。
……優くん、あまり三咲お姉ちゃんの邪魔をしてはいけないよ。
あっ、センセー。
(ジュゼ……)
近くであたしたちの話を聞いていたのか、ジュゼは男の子の頭に優しく手をおく。
それから静かな目であたしを見やった。
……三咲。
今はまだ将来のことは見えないかもしれないけれど……。
どんな仕事に就いたとしても、絵は描き続けなさい。
…………。
もう何度も、私は三咲に伝えてきたね?
絵はきっと人を豊かにしてくれるよ。
胸がぎゅっと締め付けられて、あたしはすぐには口を開けなかった。
ジュゼの言葉が、何だか対岸から呼びかけるような響きに思えてしまう。
まるで旅立つ人に贈る、はなむけのよう……。
……卒業。その言葉が、いっそうあたしの胸の中で浮き彫りになった。
知らず、あたしはぎゅっと握りこぶしを作っていた。
………そりゃ“好き”なんだもん。
たぶん一生続けるよ。
……………………。
教室内がしんと沈黙に包まれる。
あたしの言葉に、ジュゼは何も返さなかった。
ジュゼは両手じゃ足りないほど、あたしよりずっと年上で、鋭い人だから、“好き”の裏側に、別の何かが潜んでいることを感じ取ったのかもしれない。
好きだから、一生続ける。
その言葉は、純粋に“絵を描くことが好き”という気持ちから生まれたものかと聞かれると、あたしはきっと、首を縦にふれなかった。
(あたしが……)
(あたしが一生、手放せないと思うものは……)
…………あ、ああっ!
あの車、きっとお母さんの車だ! お迎えが来たから、ボク、もう帰る!
センセー、三咲姉ちゃん、さよならっ。
男の子は絵の具セットの入ったバッグを取ると、ジュゼの言葉も待たずに走って絵画教室を出ていった。
子どもは何だかんだで鋭いから、この息苦しい雰囲気に耐えられなかったのかもしれない。
慌しくドアが開き……それが閉まると、教室の中は再び沈黙に包まれた。
…………。
もう教室にはあたしとジュゼしか残っていない。
窓の外はすっかり暗くなっている。
……それほど時間が経っても、あたしはまだ絵画教室を去れずにいた。
目線を落としたまま、ジュゼの顔もまだ見られない。
卒業と言われてから、あたしはずっとジュゼとまともに目を合わせられずにいた。
ジュゼもまた、何も言わずにそこに立っている。
けれどそのうち、ジュゼは今日の授業で使った教材の片づけを始めた。
カタン、カタンという静かな音が響く。
そうしてジュゼと二人でいると、段々とたまらない気持ちになってきた。
この状況をもどかしいと感じるのに、あたしはほんの少しの身動きも出来ずにいる。
(……怖い、の?)
(変化が……この時間の終わりが……)
(でも……あたし……)
……あたしの場所って、もうここにはない?
震えそうになる声で、あたしはジュゼにそう尋ねた。
気になって気になって仕方が無いのに、怖くて声に出せなかった質問。
ばくばくと暴れているのに、心臓は異様に冷たいように感じる。
……いつでも遊びに来たらいいじゃないか。
ジュゼはあたしに背を向けて、片付けの手を止めないまま答えた。
大学生や社会人の生徒も、ここにはたくさんいるよ。
(……っ)
ちがう、と思った。
明確に何が欲しいのかと聞かれたら、自信を持って答えられないけど……。
そういう言葉が欲しいんじゃない。それだけは、今、あたしの胸が強く訴えている。
そうじゃなくって……。
(ジュゼは、あたしにとって……)
それまで石のようになっていた手足が、自然と動く。
片付けをしているジュゼの背中に、あたしは後ろからふわりと抱きついた。
……………………!
ジュゼが、驚きに息を飲んだ気配が伝わってくる。
それでもあたしはジュゼに抱きついたまま離れなかった。
…………。
……三咲、私は三咲のお父さんにはなれないよ。
片付けの手を止めて、小さな子どもを諭す時のようにジュゼはあたしに言った。
ジュゼの背中の温度を頬に感じながら、あたしはぎゅっと唇をかみしめる。
そうじゃない……。
しぼり出すように言いながら、あたしはますます強くジュゼに抱きついた。
広くて温かい背中。
もしかして、勇気を出してもっと早くこうしてジュゼに触れていれば、答えは割と簡単に見つかったのかもしれない。
(恋なんてしたことないあたしだけど、本能でわかるよ)
(親に甘える子どもは、こんな抱擁をしたりしない……)
(こんなにも胸が切なくて苦しい想いをこめて……男の人を抱きしめたりなんかしない)
……おいおい、いい歳のオジサンをあまりからかうもんじゃない。
…………まだ若いと思うけど?
三咲……。
よく聞くんだ。……三咲が今まで見てきたのは、三咲のお父さんの姿だよ。
私を通して、父親の姿を見ていた。三咲が求めているのは私じゃない。
……そうだね。私も最初はそう思っていた。
もしかしたら、合格の報告をした時までは、ジュゼの言う通りだったのかもしれない。
でも……今は違うって言える。
……違わないさ。
三咲のお父さんと同じくらいの歳で、絵筆を握っている。他の人より特別な存在に映ったのかもしれないが……。
……それが、ジュゼの願いなの?
ジュゼッペ…………。
娘のような存在で、教室に長年通った生徒のままでいて欲しい?
ジュゼッペ…………。
……亡くなった奥さんが忘れられない?
そんなセンチな男じゃないよ。……それは前にも言ったね。
…………っ。
ジュゼの手がそっとあたしの肌に触れたかと思うと、しがみつくようにしていたあたしの腕をほどいてく。
触れていた温もりが離れて、波が引くように胸が冷たくなっていくのを感じながら、あたしは立ち尽くした。
……だ……だったら……っ。
――あたしのことを、ちゃんと考えてみて欲しい――
そう思ったけれど、声が震えてうまく口には出せなかった。
(やっぱりジュゼは……あたしを一人の女性としては見てくれない……)
(…………ジュゼ……)
ジュゼはあたしから離れると、教室の奥にあるアトリエへと歩き出した。
もうこれで終わりなのかと、ぎゅっと強く目を瞑(つむ)る。
もう少し、考えさせてくれないか。
……目を瞑ったあたしの耳に入ってきた言葉は、あたしが想像もしてなかった言葉だった。
…………え……?
掠れた声をもらしながら、あたしはパッと顔を上げる。
ジュゼは一度あたしを振り返った後、そのままアトリエに入っていった。
ふらふらとその後を追いかけると、見覚えのある大きなキャンバスが目に飛び込んでくる。
……この絵が完成した時に、もう一度考えさせてくれないか。
キャンバスに掛かっていた布が、ジュゼの手によって取り払われる。
そこに描かれていたのは、思った通り、いつかあたしが見かけた女性の絵だった。
・
・
・
【==== アトリエ ====】
︙
けどその絵は、あたしが前に見たものとは少し違うものだった。
あれ……前に見たのと印象が違う。……それに、あまり進んでないのね?
以前見た時も完成していなかったけど、そこからほとんど進んでいない……むしろ完成度が下がった印象まである。
キャンバスからは、ぼんやりとした全体像しか伝わってこなかった。
ああ……随分とやり直したからね。
そうなんだ……。
(あの日のジュゼはかなり集中していたように見えたけど……)
(…………)
(…………え……?)
描きかけのジュゼの絵を初めてじっくり見つめて……やがてその絵に、あたしはある違和感を覚えた。
こ、これって……。
若い、外国人らしい一人の女性の絵。前に見た時にジュゼが描いていたのは、間違いなくそうだった。
そのはずなのに、今、あたしの目の前にあるキャンバスに描かれているのは、前に見た女性とは違うとはっきりわかる……もっと言うと、どことなくあたしに似た面影の女性だったのだ。
…………。
……ジュゼ……。
絵が心を映す鏡だとは、よく言ったものだ。
肩をすくめて、まるで他人事のように淡々と言いながら、ジュゼは息を一つ吐いた。
…………っ。
これまでにジュゼから学んだもの。
それがあるから、わかる。感じ取れる。
それがどんな名前で呼ばれるものかまだわからないけれど、確かにジュゼの想いが伝わってくる。
(あたしとジュゼは……きっとこれで終わりなんかじゃない)
胸がいっぱいで、涙目になっているのはわかっていたけど、あたしは顔を上げてジュゼを正面から見つめた。
な……なんだ。素直にこの絵のモデルになってくれって、言えばいいのに。
相変わらず自分でも可愛くないと思う物言い。でもあたしはきっと、これでいいんだと思う。
……ふふっ。本当に生意気だ。
そう言って、ジュゼは少しだけ強くあたしを胸元に引き寄せたのだった。
……その日、あたしは確かに何かを卒業した。
けれど、いつだって別れは新しい始まりの合図なんだ。
きっとこれから、今までとは少し違うあたしとジュゼの時間が始まる。
熱い胸で、あたしはそう信じていたのだった……。