イタリア館
~10話~

【==== 絵画教室(夜) ====】

絵画教室の少年

…………、……ちゃん。ねえってば、三咲姉ちゃん!

三咲

……!

制服のはしっこを軽く引っ張られて、あたしはどきりとして手を止めた。

三咲

あ……ご、ごめん、ボーッとしてた。何か用?

あたしに声をかけたのは、絵画教室にかよう小学生の男の子だった。

絵画教室の少年

さっきセンセーから聞いたよ。三咲姉ちゃん、大学に合格したんだよね? おめでとーございます。

三咲

ああ……まあね。ありがと。

何とか笑顔を作ってそう答える。

……けれど、うまく笑えているかどうかあまり自信はなかった。

三咲

(……“この絵画教室を卒業する”)

数時間前に聞いたジュゼの言葉は、あたしの脳内に強く残っていた。

けれど、あたしの動揺はよそにその日も絵画教室は始まって、あたしは大学が始まるまでの課題用の資料を探すという名目で、教室のすみで画集などをめくっていた。

でも、結局何もできないまま時間だけ経っていて、ため息をつきつつ本棚に画集を戻す。

絵画教室の少年

でもさぁ三咲姉ちゃん。絵描きって全然もうからないんでしょ?

三咲

えっ……!?

突然、やけに現実的な質問をされて、あたしはぎょっと目を見開いた。
男の子はあどけない表情のまま、悪気なく言葉を続ける。

絵画教室の少年

お母さんが前にそう言ってたんだ。絵描きはすごく大変なんだって。

三咲

えっと……それは……。

三咲

……確かに、絵だけを描いて生活していくのは難しいかもね。

絵画教室の少年

やっぱりそうなんだー。

三咲

…………。

ジュゼッペ

……優くん、あまり三咲お姉ちゃんの邪魔をしてはいけないよ。

絵画教室の少年

あっ、センセー。

三咲

(ジュゼ……)

近くであたしたちの話を聞いていたのか、ジュゼは男の子の頭に優しく手をおく。
それから静かな目であたしを見やった。

ジュゼッペ

……三咲。

ジュゼッペ

今はまだ将来のことは見えないかもしれないけれど……。

ジュゼッペ

どんな仕事に就いたとしても、絵は描き続けなさい。

三咲

…………。

ジュゼッペ

もう何度も、私は三咲に伝えてきたね?

ジュゼッペ

絵はきっと人を豊かにしてくれるよ。

胸がぎゅっと締め付けられて、あたしはすぐには口を開けなかった。

ジュゼの言葉が、何だか対岸から呼びかけるような響きに思えてしまう。

まるで旅立つ人に贈る、はなむけのよう……。

……卒業。その言葉が、いっそうあたしの胸の中で浮き彫りになった。

知らず、あたしはぎゅっと握りこぶしを作っていた。

三咲

………そりゃ“好き”なんだもん。

三咲

たぶん一生続けるよ。

ジュゼッペ

……………………。

教室内がしんと沈黙に包まれる。
あたしの言葉に、ジュゼは何も返さなかった。

ジュゼは両手じゃ足りないほど、あたしよりずっと年上で、鋭い人だから、“好き”の裏側に、別の何かが潜んでいることを感じ取ったのかもしれない。

好きだから、一生続ける。

その言葉は、純粋に“絵を描くことが好き”という気持ちから生まれたものかと聞かれると、あたしはきっと、首を縦にふれなかった。

三咲

(あたしが……)

三咲

(あたしが一生、手放せないと思うものは……)

絵画教室の少年

…………あ、ああっ!

絵画教室の少年

あの車、きっとお母さんの車だ! お迎えが来たから、ボク、もう帰る!

絵画教室の少年

センセー、三咲姉ちゃん、さよならっ。

男の子は絵の具セットの入ったバッグを取ると、ジュゼの言葉も待たずに走って絵画教室を出ていった。

子どもは何だかんだで鋭いから、この息苦しい雰囲気に耐えられなかったのかもしれない。

慌しくドアが開き……それが閉まると、教室の中は再び沈黙に包まれた。

三咲

…………。

もう教室にはあたしとジュゼしか残っていない。
窓の外はすっかり暗くなっている。

……それほど時間が経っても、あたしはまだ絵画教室を去れずにいた。

目線を落としたまま、ジュゼの顔もまだ見られない。

卒業と言われてから、あたしはずっとジュゼとまともに目を合わせられずにいた。
ジュゼもまた、何も言わずにそこに立っている。

けれどそのうち、ジュゼは今日の授業で使った教材の片づけを始めた。
カタン、カタンという静かな音が響く。
そうしてジュゼと二人でいると、段々とたまらない気持ちになってきた。

この状況をもどかしいと感じるのに、あたしはほんの少しの身動きも出来ずにいる。

三咲

(……怖い、の?)

三咲

(変化が……この時間の終わりが……)

三咲

(でも……あたし……)

三咲

……あたしの場所って、もうここにはない?

震えそうになる声で、あたしはジュゼにそう尋ねた。

気になって気になって仕方が無いのに、怖くて声に出せなかった質問。

ばくばくと暴れているのに、心臓は異様に冷たいように感じる。

ジュゼッペ

……いつでも遊びに来たらいいじゃないか。

ジュゼはあたしに背を向けて、片付けの手を止めないまま答えた。

ジュゼッペ

大学生や社会人の生徒も、ここにはたくさんいるよ。

三咲

(……っ)

ちがう、と思った。

明確に何が欲しいのかと聞かれたら、自信を持って答えられないけど……。

そういう言葉が欲しいんじゃない。それだけは、今、あたしの胸が強く訴えている。

三咲

そうじゃなくって……。

三咲

(ジュゼは、あたしにとって……)

それまで石のようになっていた手足が、自然と動く。
片付けをしているジュゼの背中に、あたしは後ろからふわりと抱きついた。

ジュゼッペ

……………………!

ジュゼが、驚きに息を飲んだ気配が伝わってくる。
それでもあたしはジュゼに抱きついたまま離れなかった。

ジュゼッペ

…………。

ジュゼッペ

……三咲、私は三咲のお父さんにはなれないよ。

片付けの手を止めて、小さな子どもを諭す時のようにジュゼはあたしに言った。
ジュゼの背中の温度を頬に感じながら、あたしはぎゅっと唇をかみしめる。

三咲

そうじゃない……。

しぼり出すように言いながら、あたしはますます強くジュゼに抱きついた。

広くて温かい背中。

もしかして、勇気を出してもっと早くこうしてジュゼに触れていれば、答えは割と簡単に見つかったのかもしれない。

三咲

(恋なんてしたことないあたしだけど、本能でわかるよ)

三咲

(親に甘える子どもは、こんな抱擁をしたりしない……)

三咲

(こんなにも胸が切なくて苦しい想いをこめて……男の人を抱きしめたりなんかしない)

ジュゼッペ

……おいおい、いい歳のオジサンをあまりからかうもんじゃない。

三咲

…………まだ若いと思うけど?

ジュゼッペ

三咲……。

ジュゼッペ

よく聞くんだ。……三咲が今まで見てきたのは、三咲のお父さんの姿だよ。

ジュゼッペ

私を通して、父親の姿を見ていた。三咲が求めているのは私じゃない。

三咲

……そうだね。私も最初はそう思っていた。

三咲

もしかしたら、合格の報告をした時までは、ジュゼの言う通りだったのかもしれない。

三咲

でも……今は違うって言える。

ジュゼッペ

……違わないさ。

ジュゼッペ

三咲のお父さんと同じくらいの歳で、絵筆を握っている。他の人より特別な存在に映ったのかもしれないが……。

三咲

……それが、ジュゼの願いなの?

ジュゼッペ…………。

三咲

娘のような存在で、教室に長年通った生徒のままでいて欲しい?

ジュゼッペ…………。

三咲

……亡くなった奥さんが忘れられない?

ジュゼッペ

そんなセンチな男じゃないよ。……それは前にも言ったね。

三咲

…………っ。

ジュゼの手がそっとあたしの肌に触れたかと思うと、しがみつくようにしていたあたしの腕をほどいてく。

触れていた温もりが離れて、波が引くように胸が冷たくなっていくのを感じながら、あたしは立ち尽くした。

三咲

……だ……だったら……っ。

――あたしのことを、ちゃんと考えてみて欲しい――

そう思ったけれど、声が震えてうまく口には出せなかった。

三咲

(やっぱりジュゼは……あたしを一人の女性としては見てくれない……)

三咲

(…………ジュゼ……)

ジュゼはあたしから離れると、教室の奥にあるアトリエへと歩き出した。
もうこれで終わりなのかと、ぎゅっと強く目を瞑(つむ)る。

ジュゼッペ

もう少し、考えさせてくれないか。

……目を瞑ったあたしの耳に入ってきた言葉は、あたしが想像もしてなかった言葉だった。

三咲

…………え……?

掠れた声をもらしながら、あたしはパッと顔を上げる。

ジュゼは一度あたしを振り返った後、そのままアトリエに入っていった。

ふらふらとその後を追いかけると、見覚えのある大きなキャンバスが目に飛び込んでくる。

ジュゼッペ

……この絵が完成した時に、もう一度考えさせてくれないか。

キャンバスに掛かっていた布が、ジュゼの手によって取り払われる。

そこに描かれていたのは、思った通り、いつかあたしが見かけた女性の絵だった。

【==== アトリエ ====】

けどその絵は、あたしが前に見たものとは少し違うものだった。

三咲

あれ……前に見たのと印象が違う。……それに、あまり進んでないのね?

以前見た時も完成していなかったけど、そこからほとんど進んでいない……むしろ完成度が下がった印象まである。

キャンバスからは、ぼんやりとした全体像しか伝わってこなかった。

ジュゼッペ

ああ……随分とやり直したからね。

三咲

そうなんだ……。

三咲

(あの日のジュゼはかなり集中していたように見えたけど……)

三咲

(…………)

三咲

(…………え……?)

描きかけのジュゼの絵を初めてじっくり見つめて……やがてその絵に、あたしはある違和感を覚えた。

三咲

こ、これって……。

若い、外国人らしい一人の女性の絵。前に見た時にジュゼが描いていたのは、間違いなくそうだった。

そのはずなのに、今、あたしの目の前にあるキャンバスに描かれているのは、前に見た女性とは違うとはっきりわかる……もっと言うと、どことなくあたしに似た面影の女性だったのだ。

三咲

…………。

三咲

……ジュゼ……。

ジュゼッペ

絵が心を映す鏡だとは、よく言ったものだ。

肩をすくめて、まるで他人事のように淡々と言いながら、ジュゼは息を一つ吐いた。

三咲

…………っ。

これまでにジュゼから学んだもの。

それがあるから、わかる。感じ取れる。

それがどんな名前で呼ばれるものかまだわからないけれど、確かにジュゼの想いが伝わってくる。

三咲

(あたしとジュゼは……きっとこれで終わりなんかじゃない)

胸がいっぱいで、涙目になっているのはわかっていたけど、あたしは顔を上げてジュゼを正面から見つめた。

三咲

な……なんだ。素直にこの絵のモデルになってくれって、言えばいいのに。

相変わらず自分でも可愛くないと思う物言い。でもあたしはきっと、これでいいんだと思う。

ジュゼッペ

……ふふっ。本当に生意気だ。

そう言って、ジュゼは少しだけ強くあたしを胸元に引き寄せたのだった。

……その日、あたしは確かに何かを卒業した。

けれど、いつだって別れは新しい始まりの合図なんだ。

きっとこれから、今までとは少し違うあたしとジュゼの時間が始まる。

熱い胸で、あたしはそう信じていたのだった……。

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