住宅街
はー……ついにこの日が来たのね。
受験当日の朝、母さんは何かする度にその言葉をくり返していた。
もう、落ち着いてって。3分前にも全く同じセリフ言ってたじゃない。
そんなこと言ったって、一人娘の大一番ですもの。落ち着けるわけないじゃないのよ。
はいはい、全く……。
神社で買ったお守りは? 持った?
ちゃんとかばんに入ってるよ。
…………。
三咲、ちゃんと落ち着いてるわね。
……うん。
小さくうなずいて、あたしは微笑んだ。
ここまで来たら、もう焦ってもしょうがないしね。
少しつまづいた日もあったけど、今日までできることは全部やった。
……いってきます、母さん。
うん……気をつけていってらっしゃい!
母さんに見送られて、あたしは笑顔で歩き出した。
けれど、あたしが今目指しているのは、受験会場ではなかった。
試験が始まる時間よりもかなり早めに家を出て、あたしが向かった先は……。
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イタリア館
(……………………)
朝日に照らされる古く美しい建物を、黙って見上げる。
まだオープンしていないジュゼの館の前で、あたしはすっと背筋を伸ばした。
…………いってきます。
そう挨拶をして、ゆっくり頭を下げる。
顔を上げると、あたしはくるりと回れ右をして受験会場に向かって歩きだしたのだった。
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【==== アトリエ ====】
……早朝の街中を、颯爽と歩く姿。
…………いよいよ本番だね。
窓から見える三咲の背中を見つめて、私は一人呟いた。
華奢だけど、落ち着きと生気に満ちた凛とした後ろ姿。
その眩しさに、思わず目を細めてしまう。
精一杯やっておいで、三咲。
三咲なら……きっと……。
…………。
コーヒーを一口飲んで、私はそばに置いてある描きかけのキャンバスに目をやった。
こっちもあと少し……かな。
…………さて、始めようか。
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【==== 絵画教室 ====】
︙
三咲ちゃん、今日は本当にお疲れ様だったね!
それで、試験はどうだったんだい? うまくいきそうかい?
ほらほら、いつまでも入り口に立ってないで、こっちに座って。
え……えっと……。
……受験後、あたしは駅から直接絵画教室へとやって来ていた。
無事にやり遂げたと、ジュゼに一言報告しようと思ったからだ。
けど、教室に入ったあたしをまず出迎えたのは、教室に通う生徒のみんなだった。
まるで待ちかねたゲストが来たような扱いに一瞬呆気にとられてしまう。
…………みなさん、心配してくれてありがとうございます。
だけど、あたしは自然に笑うことができた。
(あたしの本命校K美大の受験日が今日だというのを、結構たくさんの人達が知ってたんだな)
少し驚いたけど、こうして声をかけてくれることは素直にありがたいと思う。
自信は……なんともいえないです。
やれることはやりましたけど、やっぱり周りの受験生達がすごかったですから。
レベルも集中力もすごく高くて……。
そう……でもきっと三咲ちゃんなら大丈夫よ!
うんうん、わしもそう思うよ。……先生もそうだろう?
(……!)
どきりと胸を跳ねさせながら、あたしは背後を振り返る。
…………おかえり、三咲。
(あ……)
穏やかな声と、柔らかい眼差し。
ジュゼの姿を見た瞬間、あたしの胸はじわりと温かくなった。
うん……ただいま、ジュゼ。
……あたしの全力、ぶつけてきたよ。
そうか……よく頑張ったね、三咲。
その言葉が想像以上に嬉しく、あたしは黙ったままこくんと首を縦に振った。
あっ、そうだ! ジュゼッペセンセー、今日この後、『三咲ちゃんの試験お疲れ様会』をやりましょうよ!
……えっ!?
その時、絵画教室の生徒の一人……以前ジュゼと買い物をしていた人が笑顔でそんな提案をする。
ん? お疲れ様会?
わ~、いいね~! みんなでカンパして、三咲ちゃんにケーキとか食べてもらいましょ~!
ふむ……。
そ、そんな、いいですよ……。気持ちだけで十分で……。
いいアイデアだね。
ええっ……!?
この後と言わず、今からこの教室でやるのはどうかな? みんなも三咲の話を色々聞きたいだろうしね。
わ~! ジュゼッペセンセー、話せる!
あら、いいですね。じゃあ早速飲み物とケーキを買ってこないと……。
ちょ、ちょっと、ジュゼ……。
三咲、これから少し時間はあるかな?
それは……大丈夫だけど……。
よかった~!
三咲ちゃんとはそこそこ歳も近いし、受験頑張ってるのを見て、本当にすごいな~って思ってたし!
ね~! せめて終わったあとくらい、ちょっとでも何かしてあげたいよね。
……え……。
三咲ちゃん、ケーキは何が好き?
…………。
…………似合わないって思われそうなんだけど、実はイチゴのケーキが好きだったり。
笑いながら言うと、その女性達も笑顔をうかべて、おいしいのを買ってくるからと言ってくれた。
……そうして、その日ジュゼの館ではあたしのお疲れ様会が開かれることになったのだった。
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三咲ちゃん、受験、お疲れ様でした~!
色んな大きさのグラスだったり、紙コップだったりを手にして、みんなが乾杯をしてくれる。
あの……ありがとう……ございます。
まさかこんなふうに労ってもらえるなんて、本当に思ってなくて……素直に嬉しいです。
ふふふ……じゃあ早速ケーキを切りましょうか。
みんなのもとにケーキが行き渡って、やがて、それぞれおしゃべりが始まる。
今日はとてもいい顔をしているね、三咲。
賑やかな空気の中、ジュゼはふいにあたしに声をかけた。
え……そ、そう?
ああ。やっぱりお疲れ様会を開いて正解だったね。私も今日はいい気分だ。
みんなが三咲を祝ってくれて、三咲も嬉しそうにケーキを食べている。
そ……それは、このケーキが本当においしいんだから仕方ないんだって!
ははは……!
……でも本当によく頑張った、三咲。どんな結果でも、三咲は私の誇りだよ。
…………。
ジュゼの言葉を、あたしは静かに噛み締めた。
ありがとう……。
(……もし父さんがここにいたら、同じように言ってくれたんだろうか)
(いっそジュゼが父親で……本当の家族だったらよかったのにな……なんてね)
ん……? 三咲?
ああ、何でもない。
……そういえば、三咲ちゃん、結果発表はいつ頃になるんだい?
あ……2週間後です。
そうか……明日からしばらくは、人事を尽くして天命を待つ……なんだな。
そうだね……。
でもあたし、いざとなったら浪人してでももう一度受けるつもりなんで!
あたしは冗談っぽく言いながら、明るい笑顔を浮かべてみせた。
せっかく入りたい学校があるんだもん。あたし、諦めませんよ!
うんうん、その意気だ!
三咲ちゃん、こっちおいで。おばさんのケーキのイチゴあげるから、元気つけていきなさい。
あは……ありがとうー。
…………。
………………強くなったね、三咲。
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イタリア館
……それからの時間はあっという間だった。
絵画教室でケーキを食べた後は、家に戻って母さんの手料理を山のように食べさせられてお腹が苦しかった。
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高校正門
そして、受験日から2週間後の早朝。
2月末の、身を切るような寒さの中、あたしはK美大の合格発表を確認しにやって来たのだった。
(ついにこの日が来たか……)
(…………)
周りにはあたしと同じように緊張した顔の人があふれ返っている。
もう結果を見たのか、友達同士で喜び合う人達が大勢いた。
かと思えば、家族と一緒に発表を見に来て、親に飛びついて涙を流している子もいる。
……思ったような結果じゃなかったのか、目を真っ赤にして足早に帰る人達ともすれ違った。
(……あたしは、どっちだろう?)
もう暗記するほど見た受験番号の書かれた紙を、もう一度バッグから取り出す。
…………。
大きな張り出されている紙を見つめてあたしはごくりと息を飲んだ。
(4873……)
近い数字を見つけて、その列に並んでいる数字を順番に追っていく。
4802……4830……4855。
そして……。
(4……8、7……3……)
(……………………っ!)
今までにないほど大きく、どくんと心臓が脈打つ。
(……番号……あった……)
(あたし……あたし……っ)
やったぁーっ!!!!
あたしは大声で叫んで、手の中の受験票を握りしめた。
あまりの反応に、周囲にいた人達がびくっとしてあたしに振り返る。
でも、今はそんなの全く気にならなかった。
(合格……合格したよ!!)
(これで通える……父さんと同じ学校に!)
(母さんっ……。ジュゼ…………。あたし、やったよ……!)
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北野坂
母さんはまだ仕事中だったので、メールだけしておいて、あたしはまっすぐにジュゼの館へ向かった。
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イタリア館
(ジュゼ……ジュゼ……!)
絵画教室が始まるよりずっと早い時間だったけど、迷わずドアに手をかける。
ジュゼならきっと、ドアを開けていてくれる気がした。
そして予想通り、教室のドアは何の抵抗もなく開く。
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【==== 絵画教室 ====】
ジュゼ……!!
ドアを開けると、あたしが求める姿はすぐ見つかった。
三咲……。
合格したよ、あたし……!
まだ息も整わないまま、大きな声でそう伝える。
春から……父さんと同じ学校に……。
そうか……。
おめでとう、三咲!
……っ、うん!
嬉し涙で瞳を潤ませるあたしを見て、ジュゼは微笑みながら肩をそっと抱いてくれた。
よかった……本当によかった……。
ああ、よく頑張り抜いたね、三咲。
……でも、実は私は、今日三咲が笑顔でそこのドアを開けることを知っていたんだ。
え……?
きょとんとして顔をあげるあたしに、ジュゼはくすっと微笑んでみせる。
三咲が合格するのは当然だからね。
ふ……ふふ……ジュゼってば。
ジュゼにつられて、あたしも口角を持ち上げた。
生きてきた中で、5本の指に入る。そのくらい特別な喜びにあたしは胸を熱くしていた。
そんなあたしを見下ろして、ジュゼは穏やかに目を細めている。
――けれど。
…………これで、ここも卒業だな。
…………。
…………え?
聞こえた言葉に、あたしの表情は一瞬で強張った。
大学にいけば、それこそ教えを乞うべき先生がたくさんいる。
仲間もできて、課題もたくさんあるだろう。もう私が教えられることは何一つないよ。
そんな……。
……三咲には、この絵画教室を卒業する時がきたんだ。
……………………。
ジュゼが口にしたのは予想もしていなかった言葉だった。
あたしが、この絵画教室を、卒業する――。
(……いや……違う……)
(予想してなかったわけじゃない)
すうっと体が冷たくなるのを感じながら……あたしはジュゼの言葉は真実だと理解していた。
(あたし……本当はわかってた……)
(たぶん、わざと考えないようにしていた)
(これまでのジュゼとの時間は……)
(期間限定のもの……永遠には続かないものだって)
静かな教室の中に立ち尽くすあたしをジュゼはずっと見つめている。
……父さんのように優しい眼差し。でもジュゼはあたしの父さんじゃない。
父さんのように懐が広くて、あたしのために頑張ってくれて、色々なことを教えてくれた。
家族みたいだ、いっそ本当に父さんならよかったのにとも思った。
(それでも……ジュゼは家族じゃない)
(……あたしは…………)