病院廊下
病院特有の匂いと静けさの中、あたしはソファに座ってじっと床を見つめていた。
(ジュゼ……)
絵画教室で倒れたジュゼは、あの後、すぐに病院に搬送された。
絵画教室に通う中でも古株にあたるおばさんが運よくやって来てくれて、携帯で救急車を呼んでくれたのだ。
その日の絵画教室は当然中止で、おばさんは教室に残って集まったみんなへ事情を説明し、あたしはジュゼと一緒に救急車に乗って付き添いをすることになった。
(あんなふうに倒れるなんて……大丈夫なの? ひょっとして……、何か酷い病気になったんじゃ……)
(……あたしのせいだ……きっと……)
(あんなに顔色が悪かったのに、全然気付けなくて……)
あたしは冷たい指先をぎゅっとにぎりしめた。
その時、ジュゼが運びこまれた処置室のドアが静かに開く。
……っ!
アボイさんの付き添いの方ですね?
は、はい……。
どきんどきんと心拍数を速くしながらあたしは慌ててソファから立った。
アボイさんの容態はひとまず安定していますので、心配はいりません。
ですが念のために2泊3日、入院されることになりました。
……入院……。
処置は終わりましたので、病室に移られたらお話もできますよ。ただ無理はさせないようにしてくださいね。
それからジュゼは空病室に運ばれ、あたしも急いでそこに向かった。
病院病室
三咲……。
ジュゼ……っ……。
ベッドに寝ているジュゼを見た瞬間、あたしのまぶたはかっと熱くなった。
よ、容態は……っ? 入院なんて、どこか悪いところがあったんじゃ……。
ああ、心配させたね、三咲。大丈夫。どこにも悪いところはなかったよ。
ベッドに駆け寄ったあたしを見上げて、ジュゼは安心させるように微笑んだ。
疲労や睡眠不足のせいで倒れたんだろうと、ドクターに言われたよ。
しばらくゆっくり休めば問題ないそうだ。
……そ、う……。
……!
そう、なんだ……よか……っ……。
あたしはベッドのそばに力なくしゃがみこんだ。
のどの奥がぎゅっと締め付けられるように痛んで、まともに話せなくなる。
緊張の糸が切れたのか、あたしの瞳からはポロポロと熱い雫がこぼれていた。
三咲……。
ごめん……っ、ジュゼ……。ジュゼが倒れたの……あたしのせい……。
今まで一度もこんなことなかった……あたしに付き合わせて、無理をさせたからっ……。
そんなことはないよ。三咲のせいじゃない。
ジュゼはあたしの顔を上げさせると、ゆっくりと、でもしっかりした口調でそう言い聞かせた。
むしろ謝るのは私だよ。三咲に辛い思いをさせてしまってすまない。
目の前でいきなり人が倒れて、とても驚いただろう?
……っ……。……うぅ……。
怖かったね……。本当にすまない、三咲……。
自分だって体調が辛いはずなのに、ジュゼはそっとあたしの頭を撫でてくれた。
でももう心配はいらない。私は大丈夫だから。
あたしに触れるジュゼの手のひらはとても優しくて、だからこそあたしはますます涙が止まらなくなってしまう。
(この温かい手がもし動かなくなってしまったら……)
(大事な存在が……またいなくなってしまったら……)
……幼い頃の遠い記憶。
もう二度と座れなくなった温かい膝の上。
泣いている母さんの横顔……。
あの時みたいになったらと……蒼白になったジュゼを見た瞬間、胸の奥から冷たいものが込み上げた。
でも、ジュゼはこうしてあたしの目の前にいてくれている。
その事実が今、あたしの胸を酷く熱く、切なくさせていた。
うっ……ひっく……っ……。
……………………。
大丈夫。もう何ともないよ、三咲。
三咲は優しい子だね……。
大丈夫だよ……。
低音の穏やかな声で言いながら、ジュゼは何度もあたしを撫でてくれた。
(ジュゼ……ジュゼ……)
しゃくり上げてうまく喋れない代わりに、あたしは胸の中で何度も彼の名前を呼んだのだった。
・
・
・
イタリア館
翌日、絵画教室はしばらくの間休業することになるというジュゼからの伝言を、あたしは生徒達に連絡した。
入院は2泊3日だけど、念のために2週間ほど静養することにしたそうだ。
・
・
・
病院病室
……大事な時期に、直接指導してあげられなくてすまない、三咲。
電話で連絡はもらっていたけれど、どうしても心配で、あたしは学校帰りに少しだけジュゼのもとに寄っていた。
いいよ、ジュゼの体が一番大事だし。
もし何か助けが必要そうなら言って。できる限り役に立ちたいし……。
ありがとう、三咲。
でも今はその気持ちだけで十分だよ。受験も近付いてきている……三咲は絵の勉強に打ち込みなさい。
…………。
私のことは気にしなくていい。元気になるためにこうして休みまでもらっているんだ。
きちんと食事も睡眠もとって、体を大事にするよ。
だから三咲も、今は自分のことだけを考えるんだ。
……うん……。
ジュゼの言葉にうなずいて、あたしは病室を後にした。
・
・
・
病院病室
…………。
これだけ歳をとっても、まだまだ私はダメだな……。
(大事な時期に、三咲にあんな顔をさせてしまって……)
…………………………。
・
・
・
三咲の部屋
病院を出た後、あたしはまっすぐに家に帰ってきた。
けれど、モチーフの静物を用意して、クロッキー帳をイーゼルに置くものの、あたしはすぐに鉛筆をにぎる手を止めてしまった。
(ダメだ……全然集中できてない)
目の前のクロッキー帳、そこにのせてある精彩を欠いた線をにらんで、深いため息をつく。
(ジュゼの言うように受験はもうすぐそこ……)
(最後の追い込みだから、気を抜くことは絶対にできない)
(なのに、あたし……全然ダメだ)
受験にデッサンの課題は必ずついてくる。
それまで1日も休まず手を動かして、絶対に勘を鈍らせないようにしないといけない。
そうわかっていても、どうしても手を動かせない。
(…………)
集中できない理由は、実はわかりきっていた。
(ジュゼ……)
彼のことが気になって仕方がなかった。
今、ジュゼはどうしているんだろうとつい考えてしまう。
(いやいや、ダメだ! これじゃジュゼに心配をかけるばっかりだ)
自分のせいであたしが集中できなかったとジュゼに思われなくない。
あたしがジュゼを心配するあまり受験に失敗したなんてことになったら、ジュゼは一体どんな気持ちになるか……。
彼のためにも何とか作品を作ろうと、あたしはパンパンと自分の頬を叩いた。
(集中しろ! 今が一番大事な時期なんだ!)
ぎゅっと鉛筆を握って、用意していたモチーフを見つめる。
無理矢理にでも、とにかく手を動かそうとあたしは思った。
ガリガリと、画用紙と鉛筆がこすれる音が響く。
けれど、少し描いてすぐにあたしは手を止めてしまった。
(ちがう……)
(こんな線、全然ダメだ……)
ビリッとクロッキー帳を破って、床に投げ捨てる。
その次に描いたページも、そのまた次に描いたページも、あたしは途中で手を止めて破り捨てた。
……そして、とうとうあたしは真っ白な画用紙を前にして、ほんの少しも鉛筆を動かせなくなってしまったのだった。
(…………そんな……)
(どうしよう……あたし……描けないよ……)
どれだけ無理に描こうとしても、結局1枚もまともに作品を作ることができていない。
キャンバスの前に座っても、心に何にも感じないのだ。
(あんなにキャンバスに向かいたい、描きたいって気持ちがあふれていたのに……)
(……どうすれば……)
どうしたらいいの……ジュゼ……。
呆然としながら、あたしが無意識に口にしたのは、やっぱり彼の名前だった。
(ああ、でも、ジュゼならこんなことはないのかも……)
(倒れてしまうほど無理をしてでも、どうしても描きたい絵がジュゼにはある……)
あたしはアトリエにあるであろう、ジュゼの描きかけのキャンバスを思い出した。
(…………)
(それほどジュゼが描きたい絵って、一体どんな絵なんだろう?)
(あの絵はジュゼにとってすごく大事な絵なんだろうか?)
ふいに、キャンバスに向かっていた父さんの面影を思い出す。
(詳しく覚えてないけど、絵を描いている時の父さんは、たぶん優しい顔をしていたような気がする)
(……ジュゼもそうなのかな?)
(どんな気持ちであの女の人の絵を描いて……)
…………っ!
持っていた鉛筆を放り投げるようにして、あたしはガタンと椅子から立ち上がった。
部屋の中に一人立ち尽くして、何にも描かれていない真っ白なクロッキー帳を見つめる。
……あ……。
あたし……。
何の感情もない、無地のキャンバスのように……。
自分の心をそんなふうに保とうとしていたのかもしれないと、その時、あたしはとうとう自覚してしまった。
あたしは…………。
ジュゼにとって……何なの?
……その問いに正面から向き合うのを、あたしはずっと避けていたのだと思う。
でも、一度浮かび上がってしまったらもうそれまでのように見て見ぬフリはできなかった。
これまで、あたしにとってジュゼがどういう存在なのか、そればかりを考えていた。
けれど、彼から見たあたしは、一体どう映っているのだろう……。
(あたしはただの生徒の一人? 古株で、少しだけ目をかけられている一生徒?)
(それとも……娘みたいなもの?)
(知りたいけど、知りたくない……)
・
・
・
【==== 絵画教室(夕) ====】
……その日は、久しぶりに絵画教室が再開する日だった。
静養のために教室を閉めてから、2週間ほど経っただろうか。
ジュゼッペから生徒達に教室を再開するという連絡がきて、あたしはその日、学校が終わってすぐに絵画教室に向かった。
ギイッと古いドアを開けると、見慣れた教室の風景が目に入る。
そこには、今までのように絵画教室の準備をするジュゼの背中があった。
……ん?
ドアが開いたことに気付いたジュゼは、こちらに振り返り、すぐにあたしの姿を見つける。
教室再開、おめでとう、ジュゼ。
ゆっくりと絵画教室の中を歩きながら、あたしはジュゼに近付いた。
三咲……。
ああ……ありがとう。三咲にも生徒のみんなにも心配をかけたね。
夕日がかすかに窓から差し込む中、ジュゼは穏やかに微笑む。
今日の授業で使う予定なのか、観葉植物の鉢植えをジュゼは手に持っていた。
その鉢植えを近くのテーブルの上に置くと、周りに空き瓶や布を配置していく。
そっと見回すと、教室の中にはまだ他の生徒は見当たらなかった。
あたしが一番乗り、かな?
そうだね。他の人はまだ来てないよ。
そう……。
……なら、ちょうど良かった。
そう呟いた瞬間、ジュゼは何かを感じ取ったように顔を上げてあたしを見つめた。
ジュゼと目が合ったあたしは……にこりと笑顔を作ってみせる。
ジュゼ……。
あたし、大学落ちちゃった。
・
・
・