イタリア館
~3話~

高校教室

誰もいない放課後の空き教室に重苦しい空気が漂う。

担任

やっと、ちゃんと話すことができたな。御影だけだぞ、うちのクラスで進路や希望校をはっきりさせていないのは。

三咲

(進路、か……)

進路相談から逃げていたわけじゃなかったが、それまではなんとなくのらりくらりとかわしてきた。

担任の先生もあたし自身のためにやってくれていることなので、これ以上迷惑をかけるわけにもいかず、

とりあえず話だけは聞くことにした。

担任

御影は将来、何かやりたいこととかはないのか?

三咲

……どうなんだろう。

担任

…………。

やりたいこと、と聞かれて思い浮かぶのはやっぱり絵だった。

でも絵で生計を立てていこうとか、美術の先生になろうとか、そういった職業的な考えは全く持っていなかった。

ただ絵を描くのが好き。……やっぱり父さんに影響を受けている部分が強いのだと思う。

それだけの理由で美大に進みたいと、高3になったあたりから思いだした。

担任

わかっているとは思うが、御影の学力なら関関同立や東京の有名私立も学部によっては十分狙える範囲だ。

担任

そろそろ真剣に狙いを絞った方がいい時期だと先生は思うがな。

三咲

…………。

うちの学校はこれでも結構な進学校で、あたしはその中でも運良く成績上位にいる。

受験勉強とかはしてこなかったけれど、毎日コツコツ勉強することは嫌いじゃなかった。

普通に考えて、ここであたしがビジョンのない「美大に行きたい」と言えば、先生はほとほと困るに違いない。

あたしがしばらく黙っていると、痺れを切らせた先生が真面目な表情で言葉を続けた。

担任

……御影、他の先生から聞いたんだが、美術の授業はずいぶん熱心らしいじゃないか。

担任

絵画教室にも通っていると聞いたが、そっち系の進路を考えてるのか?

三咲

えっ……。

少し目が泳いでしまった。

三咲

(絵を描くのは好きだけど、画家になりたいわけじゃない……)

三咲

(あたしが絵を描くのは父さんとの思い出を忘れないため……だと最近まで思っていた)

三咲

(でも、本当は……)

そこまで考えて、あたしはさらに目線を落とす。

三咲

まだ、何とも言えない……かな。

ぎゅっと手を握り、先生とは目を合わさずにそう告げた。

そんな煮え切らない返事ばかりのあたしに先生は小さくため息をついたが、その後優しい笑顔で言ってくれた。

担任

自分一人で抱え込まず、迷っているなら友達や身近な人に相談するのもいいと思うぞ。

三咲

……そう……だね。

こんなあたしに親身になってくれる先生に対し、今まで申し訳なかったなと少し反省した。

三咲

(相談かぁ……。でも今のあたしに、そんな相談相手なんて……)

そう思った時、ふとジュゼの顔が頭に浮かんできた。

三咲

(ジュゼだったら……いやいや違う!)

頭に浮かんだジュゼをかき消すように、あたしは小さく首を振った。

担任

御影自身の将来のことなんだから、誰かに相談するにしてもちゃんと自分と向き合って考えるようにな。

三咲

……うん、わかったよ。ありがとう、先生。

担任

……もし迷っているなら、世の中の役に立つ仕事を考えてみるのも一つだよ。

三咲

世の中の役に……?

担任

そう。

担任

結局人っていうのは、誰かの、何かの役に立ってはじめて、社会の中でその存在価値が生まれるんだ。

担任

御影が誰かを楽しくさせたり、幸せにすることができれば、それが御影の天職になるかもしれない。

三咲

あたしの天職……。あたしが誰かを楽しくさせる……。

そう言われて、あたしは目を閉じて探してみる。

あたしが幸せだった頃の思い出を――。

三咲の家リビング

そこには父さんがいた。正確には、たぶん父さんであろう人。

なぜだかよくわからないけど、顔がはっきり見えない。

父さんの膝の上には小さな女の子が嬉しそうな顔をしてちょこんと座っている。

三咲

(あれは……あたしだ! 幼い頃のあたし……)

三咲

(そうか、これは昔父さんの膝の上であたしが見ていた記憶なんだ)

三咲

(あんなに喜んで、我ながら可愛い子じゃないの)

三咲

(……やっぱりあたしが楽しかった思い出は、この時の思い出なんだ)

その様子を見ているだけで、あたし自身も幸せな気持ちになっていく。

三咲

(父さん……もっと一緒に遊びたかったなぁ。もし今でも父さんが生きていれば……)

あたしはもう一度そこにいる父さんの顔を見ようとした。

すると、それまではっきりとは見えなかった父さんの顔が、少しずつ形になっていく。

三咲

(と、父さん……!!)

あたしは次第に輪郭がはっきりしていく父さんの顔を、二度と忘れないようしっかり記憶に焼き付けようと、身を乗り出すようにしてじっと見つめた。

三咲

(……えっ!?)

だけどそこにいた父さんの顔は、いつの間にかジュゼの顔に変わっていた。

銀髪を後ろで束ねた長い髪。

実年齢より少し老けて見えるずれた眼鏡の掛け方。

そこにいたのは、紛れもなくジュゼッペそのものだった。

三咲

(……どうしてジュゼが……!?)

あたしを見て微笑むジュゼを見ながら、あたしの意識は次第に薄れていった。

高校教室

キーンコーンカーンコーン~♪

――次の瞬間。放課後のチャイムが鳴ってはっとする。

周囲を見渡すと誰もおらず、あたしはさっきまで先生と進路相談をしていた教室にぽつんと一人取り残されていた。

三咲

(あれ……? 先生は!?)

いつの間にか進路相談も終わっていてようで、オレンジ色の夕陽が時間の経過を教えてくれる。

三咲

……そうか、進路相談が終わって、その後居眠りしちゃったんだ。先生も起こしてくれればいいのに!

三咲

って、帰った後だからわからないか。

誰もいない教室に、あたしの独り言だけが空しく響いた。

【==== 絵画教室 ====】

そして、その翌日――。

ジュゼッペ

三咲……。今日もデッサンの線が不安定だね。

三咲

…………。

デッサンの線を見ただけで本当によくわかるなあと感心する。

ジュゼッペ

やはり、何か悩みごとでもあるんじゃないのかい?

三咲

(あるよ……)

ジュゼッペ

こないだ話した、己の心を映す絵は描いてみたかい?

三咲

(……描いてすぐに消したよ)

ジュゼッペ

…………。

心配そうにあたしの顔を覗きこむジュゼの距離が近い。

昨日の放課後に見た夢の中のジュゼを思い出し、息が詰まってしまう。

三咲

……ごめん、ちょっと集中したいから放っといてもらっていい?

自分でも“ツンデレ”だなぁと思う。……デレてはいないけど。

ジュゼッペ

そうか。余計なことを言ってすまなかった。

ジュゼッペ

作品は結果で評価されるものだから、確かにプロセスは関係ない。邪魔をして悪かったね。

ジュゼはそう言うと、あたしのそばから離れていこうとした。

三咲

(なんだか大人気ないなぁあたし……)

三咲

……待って!

三咲

(進路相談のこと、ジュゼに話したら何て言ってくれるだろう……)

ふとそう思い、あたしはジュゼを呼び止めた。

ジュゼッペ

ん? どうした?

なぜそうしようと思ったのかあたしにもよくわからない。相談だけなら母さんにだってできたはずだ。

三咲

(もし父さんが生きていたら、なんて言ってくれるだろう……。それがジュゼだったら……?)

三咲

(ううん、本当はジュゼから絵の道に進めと言ってほしいだけなのかも……)

ジュゼッペ

三咲?

三咲

……あっ、ごめんなさい。

反射的に呼び止めてしまったあたしに、ジュゼは優しい声で問いかけてくる。

ジュゼッペ

三咲。君にとって絵を描くというのはどういう意味を持つ?

三咲

え……?

意表を突かれたジュゼの問いに、あたしは一瞬うろたえてしまった。

ジュゼッペ

もう数年前になるが、初めてこの教室にやって来た君は、たくさんの事を覚え、絵を描くたびにその瞳は輝きを増した。

三咲

……っ!?

ジュゼッペ

だが、最近の三咲はそうじゃない。

ジュゼッペ

むしろ何かの形式にとらわれているように見えるよ。

三咲

(あたしにとって“絵を描く”とはどういう意味を持つのか……?)

三咲

(絵を描くこと自体は好きだけど、何か高尚な目的があったり、芸術家を気取ろうと思っているわけじゃない)

三咲

(ただ絵を描くことで父さんと繋がっているような気がして……)

ジュゼッペ

私はね、絵を描くというのは、芸術というのは心の模様を具象化することだと思っている。

ジュゼッペ

人には見ることのできない“心”を、表にさらけ出すことができる手段なんだと思っているんだ。

三咲

心を表にさらけ出す……?

ジュゼッペ

絵を描くという行為は、そのひとつの手段、あるいはツールに過ぎない。

ジュゼッペ

だから三咲の荒れている線は……。

三咲

……芸術なんて、結局アーティストの自己満足に過ぎないじゃない。

あたしはジュゼの話を遮(さえぎ)って声を荒げた。

……そうしないと、心の中を言い当てられそうだったから。

三咲

わかりにくいのをいいことに、芸術って名をつけて、単に製作者の理念やエゴを押し付けるものなんじゃないの。

ジュゼッペ

三咲……。

三咲

だから、製作者に賛同できるかどうかで作品への評価も変わる。

三咲

そういう単なる『感性の物差し』でしかないとあたしは思っているわ。

言葉は適切じゃないかもしれないけど、あたしは普段から似たような考えは持っていた。

有名な画家の抽象画なんかさっぱり意味がわからないのだから。

ジュゼッペ

三咲は……本当にそう思うのかい?

なぜかジュゼは微笑んでいた。まるで駄々をこねる子どもにでも言い聞かせるような顔をして。

そしてその言葉は、深くあたしの心に刺さった。

さっきはわかったようなフリをして偉そうに反論したけれど、そうじゃない思いもあるのはわかってた。

三咲

(……だって、父さんの絵は“何か”があたしに話しかけてくるんだもの……)

三咲

……わからない。わからないよ、そんなの……!!

あたしは下を向いたまま、大きく頭を振った。

三咲

父さんの絵からは声が聞こえるんだ。それがなぜなのかはあたしにもわからない……。

ジュゼッペ

そうか……。よかった、少し安心したよ。

三咲

……どういうこと?

ジュゼッペ

三咲にも心の声を聞くことができる。ただ、まだその力が少し弱いだけなんだよ。そういうことだ。

そう言ってジュゼは、あたしの頭の上にふわっと手を乗せた。

三咲

ジュゼ……。

この日、結局ジュゼの言っていることはよくわからなかったけれど、どこか力が抜けて、少し気分が楽になったような気がした。