【==== 絵画教室(夕) ====】
あたし、大学落ちちゃった。
その言葉は、自分で思うよりもずっとすんなり出てきた。
見つめ合っていたジュゼは、あたしの言葉を聞くと驚きに目を丸くする。
その様子を眺めながら、あたしは口にした言葉とは全く別のことを思っていた。
(……前に会った時よりジュゼの顔色、良いみたい)
(数日の入院と2週間の休養で、大分体も回復したのかも)
(……よかった……)
以前のように教室に立つジュゼを見て、あたしはようやく心の底から安堵できたような気がした。
……三咲……それは……。
あ、落ちたのは滑り止めに受けた方なんだけどね。
えっ……。
ジュゼはますます混乱したような表情になる。
滑り止めに失敗した? 三咲が?
うん……。正直に言うと、全然だめだった。
あたしの口からはするすると言葉が出ていく。
自分のことじゃなく、まるで他人の話をしているかのようだ。
……………………。
そっちは大丈夫?
言葉を失っているジュゼに、あたしはできるだけ明るい笑顔を見せた。
もう全快した感じ? そうだとしてももうあんまり無理しない方がいいよ?
ああ……そうだね。
でも驚いたな。まさか三咲が滑り止め用に受けた美大に落ちるなんて……。
ということは、本命の試験日はまだなんだろう?
うん……。
…………でも、たぶん無理。
…………。
呟くあたしの声はかすれてしまっていた。
ジュゼはそんなあたしを静かな目でじっと見つめている。
これまでやってきたことをそのまま試験にぶつければ、必ず合格できるよ。
ジュゼの声を聞いて、胸が熱く詰まるような感覚に襲われた。
(……これまで、やってきた……)
だから……無理なんだって……。
三咲?
……今までみたく……、できない……。
あたし……。
あたし……自分の線が……引けなくなっちゃった……っ。
……!
貼り付けていた笑顔がみるみる崩れてしまい……あたしはたまらず目の前のジュゼの胸元に飛びついた。
ジュゼは少し驚いたようだったけど、何も言わずにあたしを抱きとめる。
大きな手のひらがそっと肩や背中に触れて、あたしはいっそうまぶたを熱くした。
……どうしよう……あたし……。
描けない……。
…………。
何にも描けなくなったの……。
どれだけ描いても全然ダメで……。段々……手を動かせなくなって……。
…………。
……ひょっとして、私が原因かい?
優しく尋ねられて、あたしは必死で首を横に振った。
ジュゼのせいだなんて、口が裂けても言いたくなかった。
そんなあたしを抱きしめたまま、ジュゼはゆっくりと息をはく。
困った子だ……。
あたしの言うことなどまるで信じてないと言わんばかりに、ジュゼは自分のせいでそうなったのかという顔をした。
(ジュゼ……あ……)
ふわっと柔らかく、あたしの髪に触れる指先。
心を見透かされそうで、うつむいていたあたしの頭を、ジュゼはいつものように優しく撫でた。
涙で濡れた瞳をそっと動かすと、微笑むジュゼと視線が重なる。
けど、それもまた三咲らしい気もするね。
……よし、それじゃあこうしよう。
今日は私と三咲、マンツーマンで“特訓”といこうじゃないか。
えっ……?
みんなとの絵画教室は、もう1日休みにさせてもらう。
連絡を入れてくるから、ちょっとここで待っていなさい。
ジュ……ジュゼ……? でも……。
困惑するあたしをよそに、ジュゼは教室の入り口のドアにさっさとクローズの札を掛けてしまった。
そして部屋の奥にあった電話を手にすると、今日来る生徒たち一人一人に連絡をした。
数十分後、改めてあたしに振り向くと、ジュゼはにこりと微笑んだ。
それじゃあ三咲、好きな所に座りなさい。
…………。
……うん。では早速特訓を始めよう。
ジュゼはたった一人だけの生徒……あたしの真正面に歩いてくると、緩やかな動きで長い足を組んだ。
今日は私がモチーフだ。
三咲の思うように……好きなように描いてみなさい。
…………!!?
・
・
・
【==== 絵画教室(夜) ====】
いつの間にか窓の外はすっかり暗くなっていた。
車が通る音も、外で遊ぶ子ども達の声も少なくなっている。
突然のジュゼの提案に戸惑いを隠せないまま、あたしは言われた通り真っ白なキャンバスとイーゼルを準備した。
進め方は全部三咲の自由だ。
何かポーズが必要なら、できるだけやってみるから言いなさい。
…………。
……じゃあ、あっちの大きな椅子で、なるべく疲れない体勢で。
…………ふふ。わかったよ。
ジュゼは生徒用のスツールではなく、背もたれのあるしっかりした椅子に座りなおした。
…………。
(あたしのための特訓か……)
……無理はしないでね、ジュゼ。
ああ、ありがとう。
そっと深呼吸してから、あたしはモチーフとなるジュゼをしっかりと見つめた。
ゆったりと座っている、穏やかな空気をまとう男性。
色素の薄い長めの髪は、わりと適当にまとめてあって、エプロンは絵の具で所々汚れている。
去年か、一昨年から変えていない眼鏡。
その奥にある、あたしよりも多くのものを見てきたはずの瞳。
そこまでは大きくない、さっきまであたしを撫でていた手のひら。
いつの間にか、あたしは目の前の白いキャンバスに薄く鉛筆を滑らせ始めていた。
クロッキー帳に下書きもせず、直接そこに何かを描き出していく。
……絵を描く線には心が表れる。
三咲がどんな線を描いてくれるのか、楽しみだよ。
…………っ。
にっと口角を上げるジュゼを見て、あたしはちょっとだけどきりとして手を止めた。
あ、あんまりハードル上げないでくれる……?
そう言うプレッシャーも、いい刺激になるだろう?
あたしはふーっと息をついてからまたキャンバスとジュゼを交互に見る。
(あたしの心、か……)
自分でもよくわからないそれを描き出すのだと思うと少しだけ怖くなる。
けれど、あたしは逃げずにキャンバスに向かい合った。
夜の絵画教室に、1本の鉛筆が動く音が響く。
他の人は誰もいない。
いるのはあたしとジュゼの二人だけ。
あたしはジュゼを、ジュゼはあたしを見つめていた。
(……この瞳をあたしは知ってる)
(今までずっと見てきたからとかじゃなくて……もっと別のところでも見たような気がする)
彼を観察しながら、あたしは段々と不思議な感覚に陥っていた。
目に見えない何かを探り当てるような……そんな感覚だ。
(…………そう)
(父さんの目に、少し似てる)
明け方の湖みたいに、静かな瞳。
周囲のものを温かく見守る瞳だ。
(父さん……)
もうどんな言葉を交わしたのかも覚えていない。
言葉を交わしたいと、あたしが思う前に父さんは遠くに行ってしまった。
でも、なぜか今なら父さんの気持ちがわかるような気がする。
(父さんも、こんな気持ちだった?)
(父さんを見上げるあたしを、父さんが見下ろす時……)
(生まれた思いを、キャンバスに一筆一筆こめていく時……)
(こんなふうに……今この瞬間に、どうしようもなく感謝したい気持ちだった?)
目の前の誰かを見つめて、目の前の誰かに見つめられる。
……ジュゼに出会えて、ジュゼを見つめるあたしと、あたしを見てくれているジュゼがいる。
(それだけで十分……なのかも)
(絵を描くって……こんなに素晴らしい気持ちになれるんだね、父さん……)
アトリエにある、ジュゼがずっと描いているだろう女性の絵。
きっともう、そのことで悩むことはないだろうと、あたしは悟った。
(ジュゼがどんな絵を描いていても構わない。あたしには関係ない)
(あたしは、あたしの心を大事にするだけでいいんだ……きっと)
白かったキャンバスには、こちらを見つめるジュゼが、まだ少し荒削りな線で浮かび上がっていた。
たまっていたものを一気に吐き出したような心地で、あたしは小さくふーっとため息をつく。
……一区切りついたかな?
あ……。
ジュゼから声をかけられて、あたしははっとして顔を上げた。
時計を見れば、もう8時を軽く過ぎている。
うん……。でも、まだ見せられるほどじゃないかも……。
そうか。ならそれはそのままにして、一度休憩しよう。そろそろお腹も空いてきた頃じゃないか?
ガタンと椅子から立ち上がると、ジュゼは奥にあるらしいキッチンの方を指さした。
こっちに来なさい。簡単なものだけど食事を作ろう。
ああ、お母さんが心配するだろうから、あとで電話を入れておきなさい。
えっ!? ……まさかジュゼがごちそうしてくれるってこと?
何だい、その顔は。こう見えて普通くらいには料理もするよ。トマト缶はまだあったかな……。
こう言ったらなんだけど、すごく意外かも。
この間入院した時に、病院の先生にも色々怒られたからなぁ……。
三咲まで同じ目にあわせるわけにはいかない。
腹が減っては、なんて言葉もあるしね。食事はきちんと摂らないと。
……とかなんとか言って、もしかしてジュゼがお腹空いただけじゃないの?
実は2度ほどお腹が鳴っていたんだ。
えっ、うそ……気付かなかった。
はははっ。
え……。……まさか今の嘘?
どうかな? さて、温かいスープでも作ろうか。
くすっと笑って、ジュゼはまたぽんとあたしの頭を撫でた。
ちゃんと食べたら、また後で続きをしよう。
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イタリア館
……こうして、あたしとジュゼの“特訓”は夜遅くまで続いた。
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そして、その数日後。
とうとうあたしの本命校である、K美大の受験日がやって来たのだった……。