イタリア館
(たぶん教室に忘れたんだと思うんだけど……)
絵画教室から帰る途中、忘れ物に気付いたあたしは、ここまで引き返してきていた。
…………。
ジュゼに芸術を否定するようなことを言ったりしながらも、あたしは毎日ここに通っている。
気まずくならずに通えているのは、ジュゼが普段と変わらずに接してくれているからだった。
『三咲にも心の声を聞くことができる。ただ、まだその力が少し弱いだけなんだよ』
(心の声を聞く力か……)
(迷惑かけてるのはわかってるけど、それがどういうことなのか、あたしは知りたい……)
でも、あたし一人じゃどうすることもできなくて、今はジュゼの優しさに甘えていた。
忘れ物を取りに中に入りたくて、閉められた門の前で中の様子を窺うけれど、教室には既に明かりがない。
(もう誰も残ってないか……。ジュゼも2階の自分の部屋に上がってるだろうし、どうしようかな……?)
そう思いながら何気なくドアを押すと、偶然鍵が開いていたようで、カチャリとあっけなく開いてしまう。
(開いた……。無用心だなぁ、ジュゼったら。泥棒でも入ったらどうするの!)
少し悩んだものの、すぐ終わる用事だと思い、こっそり中に入ることにした。
(もしジュゼに見つかったら事情を話せばいいだけだし)
(ということで、お邪魔しまーす……)
なるべく音を立てないよう、あたしは静かに中へ入っていった。
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【==== 絵画教室(夜) ====】
そっと奥に進み、少しドキドキしながら教室の中に入る。
よくよく考えれば、先に連絡して入ることもできたし、入った後に声をかけてこそこそせずに入ることもできた。
でも、この時のあたしはなぜかジュゼに顔を合わすことなく、忘れ物を取りに行きたい気分だった。
忍者のように、抜き足差し足でゆっくり奥へ進むと、教室の奥にあるドアの隙間からぼんやり明かりが漏れていた。
(あれ? 教室は終わってるはずなのに奥に誰かいる?)
(確か、教室の奥にあるのはジュゼのアトリエだったはず)
あたしも数えるほどしか入ったことはないが、ジュゼは教室奥の小さな部屋に自分だけのアトリエを持っている。
普段はあたしたちに絵を教えているだけだが、年に数点ほど自分の描きたい絵を描いているのだという。
ジュゼの絵か……。いったいどんな絵を描いてるんだろう?
光に誘われる羽虫のように、あたしは明かりが漏れる奥の部屋のドアに、無意識に吸い込まれていった。
何か悪いことでもしているような気持ちになったけれど、湧き出る好奇心を抑えることはできなかった。
あたしはぎりぎりまで近づいては、音を立てないようにしてドアの隙間から光の先を覗き込んだ。
(あれは……!?)
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【==== アトリエ(夜) ====】
そこには想像通り、ドアに背を向けて一人でキャンバスに向かうジュゼの姿があった。
(ジュゼ……。何を描いてるの……?)
集中力がすごいのか、背中からでもひどく真剣な雰囲気が窺えて、あたしはつい身構えてしまった。
それでも湧き上がる好奇心を抑えることができず、気持ちが暴走してしまったあたしは、ついにドアを押して部屋の中にそっと足を踏み入れてしまったのだった。
キャンバスに向かい、見たこともないくらい集中したジュゼは、後ろに立つあたしにすら気がつかない。
そして、その筆の先に描かれていた絵は、誰かまではわからないけど明らかに女性がモチーフになっていた。
(……あんな絵、前から描いてた?)
(それに、ジュゼの顔……)
一心不乱に絵に向かい合っているジュゼの真剣な横顔は、まるで自分の知らない人のように感じられた。
それはジュゼがいつもの“先生”ではなく、一人の“画家”そのものだったから――。
そっとキャンバスを覗き込むと、やはり若い外国人の女性が描かれているのが見える。
その事実に少し胸がちくりとした。
(あたしにも気付かないくらいに夢中で……)
ジュゼの全く手を止めずに描き続ける姿に、見てはいけないものを見てしまったというやましい気持ちになる。
描かれている女性は一人で、年齢なんかはわからない。おそらく20代後半くらいじゃないかと思う。
肖像画のように椅子か何かに座っていてまっすぐジュゼのほうを見据えているようだった。
(いったい誰なんだろう? 家族? 恋人……!?)
(……普通に考えたら、亡くなった奥さん……!??)
詳しいことは聞いてないけれど、ジュゼは昔、イタリアに奥さんがいたらしい。
結婚してすぐに何かの病気で亡くなったらしく、ジュゼが日本にやってきたのもその後だという。
(ジュゼが誰を描いてたって、あたしには関係ない……関係ないはずなのに、なんでこんなに気になるの……?)
(それに、どうしてジュゼはこれほど一生懸命この女の人の絵を描いてるんだろう?)
(何かのコンペや展覧会に出すため? ……それとも……)
いろんな思いが交錯して、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
不安と嫉妬?のような感情がどんどん膨らんできて、次第にその場から逃げ出したいと思うようになっていた。
(忘れ物なんか取りに来なきゃよかったよ……。ジュゼに気付かれてない今のうちに引き返そう……)
そう思い、無意識に後ずさりした瞬間、足元に置いてあった筆洗のような缶に足を引っ掛けてしまう。
きゃっ!
カタンという乾いた音とあたしの声に、ジュゼの動きは止まった。
その後ゆっくりと振り返り、あたしがいるのを確認すると、描いていた絵を隠すようにキャンバスに布を被せた。
それからもう一度後ろを振り返って、あたしを怪訝そうな目で見遣った。
どうして三咲がここにいるんだい?
ジュゼは怒っている様子はなかったが、いつもより低い声であたしにそう訊いた。
あたしは、ジュゼに咎(とが)められることよりも絵のことが頭から離れず、彼の質問を無視して言った。
……その絵の人、亡くなった奥さん?
…………。
いや……そんなセンチメンタリストではないよ。
少し沈黙してからそう話すジュゼに、あたしはさらに複雑な気持ちになった。
(よく考えたら、あたしはジュゼのことを何も知らないんだ……)
(彼がどこで生まれて、これまでどういう人生を歩んできたのか……)
ジュゼのことがこんなにも気になる存在として、あたしの中で大きくなっていたことにあらためて驚く。
あたしは意を決すると、ぎゅっと両手を強く握って覚悟を決めた。
(……どんな答えが返ってこようと、あたしはジュゼのことが知りたい!!)
そう思うともう自分でも止められなかった。
ジュゼの……あたしの知らないジュゼの話を聞かせて……。
どんなことでもいいから、ジュゼの全てを知りたいの……。
………………。そんな話を聞いてどうするんだい?
ただ知りたいだけなの。それを知っておかないと先に進めないような気がするんだ。
…………そうか。先に言っておくが、つまらん話だぞ。
…………。
ジュゼは驚いたような困ったような表情をしていたが、あたしが本気だとわかると、椅子に深く座り直した。
そして重い口を開くように、ぽつぽつと昔話を始めたのだった。
私はイタリアのフィレンツェという場所で、アボイ家の長男として生まれたんだ。決して裕福な家ではなくてね。
兄弟は上に姉が2人いる。今でも元気でやってるよ。長女の姉にはそろそろ孫ができる頃だったかな。
そんな中、私は小さい頃から絵を描くことが好きでね。貧しかったが暇があればスケッチばかりしていたよ。
へぇ。
近くに『ウッフィーツィ美術館』という大きな美術館があってね。
子どもは無料とあって、誕生日なんかにはよく両親や姉たちに連れて行ってもらったものだ。
みんな優しい家族だったんだね。
そうだな。まあそんな趣味が高じて、私は美術系のアカデミーに入学したんだ。
そこで私はある女性と恋に落ちた。
…………!!
絵を描くこと意外に初めて興味を持つことができた人だったよ。
……後の、奥さん?
そうだよ。彼女は何がよかったのか、こんな私をいたく気に入ってくれてね。
私達は彼女がアカデミーを卒業するのを待って結婚したんだ。
…………。
彼女の家はそこそこの名家でねえ。結婚には随分反対されたよ。それでも、どうしても彼女と結婚したくてね。
(どうしても結婚したかった……!?)
そう言ったジュゼの顔は武勇伝を語る人の顔ではなく、瞳の奥底に悲しみを宿し、悔やしさに満ちた表情だった。
彼女には持病があってね……。……学生の頃から白血病だったんだ。
は、白血病……!!?
白血病といえば、今でも致死率の高い難病だと聞く。
当時はなかなかいい治療法もなくてね。そりゃあ大変だったよ。
(ジュゼは奥さんが白血病だと知っていて……それでも結婚した……!? ……いや、違う……!)
(ジュゼは“彼女が白血病だったから”結婚したんだ。彼女の残りの人生のために……)
ジュゼ、それって……。
彼の瞳がじんわりと潤んだのを見逃さなかった。
(こんなジュゼを見るのは初めてだ)
あたしは余計なことを聞いてしまったことを後悔した。
そういえば、いつかジュゼがあたしの父さんの話を聞いた時、すぐに聞くのを止めたことを思い出した。
ジュゼ……ごめんなさい……。
なあに、気にしなくていい。昔話だよ。
彼女は惜しまれながら、それから3年ほどでこの世を去っていった。
できるだけのことをしたつもりだったが、あれもすればよかった、これもすればよかったと悔やんでばかりだった。
ジュゼ……。
そのうち、何もかも忘れたくなってね。それでフィレンツェから逃げるようにして、ここ北野へやってきたんだ。
ちょうど20年ほど前になるかな。
するとどうだい、この異人館と呼ばれるイタリア館の主は、私の父親の兄弟だというじゃないか。
偶然ここで知り合った人が、会ったこともない叔父さんだったというわけだ。
私は事情を説明し、この館の管理をするという条件でここに住まわせてもらうことになったんだよ。
そ、そんな偶然が……。
私の父は叔父達に、幼い私のことを随分と自慢してくれていたらしい。『この子は絵の天才だ』ってね。
今はもうあの世だが、父には感謝しきれないよ。
ジュゼはそう言って、窓から見える夜の星空に目をやった。
その後も、ジュゼの半生を語った昔話は続いた。
そうやってイタリア館に住まわせてもらいながら、私は好きな絵を描き続けた。
だが、やはり絵で食べていくことには限界を感じていた。早い話、まったく絵が売れなかったんだよ。
こんなに上手いのに?
この程度の絵描きは山ほどいるからね。
そうしているうちにいつしか私は自信も目標もなくしてしまい、この館からも出ようと思ったある日のことだった。
ちょうど私と同じくらいの若い日本人が突然やってきて、私の絵を見てこう言うんだ。
『君には才能がある。諦めずに絵を描き続けたほうがいい。なんなら、絵画教室とか開いてみたらどうだ?』と。
……それでこの絵画教室を?
そういうことだ。心が折れそうだった私に、彼の言葉は大きな勇気をくれたよ。
(……本当に、これまでジュゼは苦労してきたんだなぁ。その日本人の人、見る目があるよ)
こうして話しているジュゼを見ていると、昔同じように苦労していたと聞いていた父さんのことを思い出す。
その彼のことは名前も聞かなかったし、今も何をしているのかわからないが、それっきり会うことはなかった。
わかっているのは、その彼がK美大の卒業生だったということだけさ。
K美大の?
ああ。本人がそう言っていたからね。彼には今でも感謝しているし、できれば直接会って当時のお礼を言いたいよ。
そっか……。
じっと見つめるジュゼの顔が、何度も父さんの顔と重なって見えた。
(やっぱり、あたしは父さんとジュゼを重ねて見ているのかな……)
(でも、それだとさっきの嫉妬のような苛立ちは何なんだろう……?)
そんな思いを巡らせながら、あたしは次第に意識が薄れていくのを感じていた。
心地よいジュゼの声は、疲弊したあたしの心を優しく癒してくれる。
気付くとそっと目を閉じていた。
このままずっとジュゼの話を聞いていたい、彼のことをもっと知りたい、そんな思いに身を焦がしながら――。