高校教室
先生、あたし、進路は美大に行こうと思ってるの。
放課後の教室に、あたしの声が響く。
窓の外から、野球部かサッカー部の練習の声が聞こえる中、担任の先生はじっとこちらを見つめた。
美大……。
……美大、か……。そうか……。
あごを何度かさすりながら、先生は呟く。
今日は、2学期最初の二者面談の日だった。
空き教室を使って、担任の先生と一対一で進路の相談をする。
ちなみに、行きたいところはもう決まっているのか?
K美大に。……父も、そこに通っていたそうだから。
……K美……。
…………うん、わかった。
持っていたバインダーをパタンと閉じると、先生はにこっと笑みを浮かべた。
少し驚いたけど、それが将来のことを考えた上で、御影のやりたいことならいいんじゃないか。
先生……。
頑張りなさい。先生も応援するから。
二学期の進路相談で、いきなり前回の面談と違うことを言いだしたりして、いったい先生からどんな顔をされるだろうと思っていたあたしは、その言葉をもらえてどこかホッとした。
ありがとう、先生……。
本当にやりたいことだから……あたし、精一杯頑張るよ。
そうか、その言葉を聞けてよかった。
……ちゃんと見つけたんだな。
改めて見ると、先生はどこか嬉しそうに目を細めている。
うん……!
あたしもまた笑顔になって、大きくうなずいた。
高校廊下
失礼しました。
ガラガラと空き教室のドアを閉めて、自分の教室へと戻る。
歩く速度が少し速いと自分でもわかっていた。
(あたしらしくない……? なんかテンションあがってるのかも)
(早くキャンバスの前で手を動かしたい……)
高校教室
村田さん、あたし面談終わったから、次、村田さんね。
自分の教室に戻ると、あたしはそこで待っていた一人の女の子に声をかけた。
あ、わかった、ありがとう。
連絡事項を伝える義務も終わったので、あたしはさっそくジュゼのもとへ行くため、荷物をまとめだす。
……御影さん、なんかいいこと言われたの?
え……?
普段そこまで話すわけじゃない女子に声をかけられて、あたしは少し驚いて顔をあげた。
や、何かいつもと雰囲気違うっていうか。楽しそう?
…………もしかして、今から彼氏にでも会いに行くの? なーんて。
(…………)
他の人から見たら、今のあたしってそんなふうに見えるんだろうか。
でも確かに少しでも早くキャンバスに向かいたいし、絵筆に触れたい。
……ま、似たようなもんかな?
くすっと笑って、冗談まじりにあたしは答えた。
……え。
面談に向かおうとしていたその子は目を丸くして、あたしに振り返る。
えーーっ!? うそー、本当に? ていうか御影さん、そういう話題アリなんだ!?
そんな話したら、興味ないって一刀両断されるかと思ってた~!
ふっ……武士じゃないんだから。
それじゃああたし、帰るから。面談いってらっしゃい。
わー、もー、なんで今そんな気になること暴露しちゃうのー!?
今度詳しく聞かせて~という声を聞きながら、あたしは笑って教室を出た。
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北野坂
(ジュゼにも話そう……今日のこと)
絵画教室への道を、いつもより少し急いで歩く。
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【==== 絵画教室 ====】
まだ絵画教室が始まる時間じゃないけれど、あたしは構わず教室のドアをギィッと開けた。
いつもの教室には、やっぱり生徒はまだ誰も来ていない。
けれど意外と上背のある男性が一人、部屋のすみでしゃがみこんでいた。
……おや? 三咲かい?
顔を上げたジュゼッペは、それまで触れていた木製の椅子を支えにして立ち上がる。
制服も着替えずに、今日はずいぶん早いじゃないか。
あー……あっちの画材置いてる部屋の影ですぐ着替えるから大丈夫。
それよりジュゼは何してたの?
さっき面談をしてきたことをすぐに話したい気もするけど、なんとなく世間話のようなことから話し始めてしまう。
教室で使っている椅子がぐらついていてね。少し直していたところだ。
ああ……年代物だもんね。
古臭いと、正直に言ってもいいよ。
そろそろ買い換えた方がいいかな。
まだ使えるから修理してたんじゃないの? それにその古い木の色、結構綺麗なのに。
よく見ると、ジュゼのそばには小さな工具箱が置いてある。
それもまた、年代物だった。
昔からジュゼが使っていたものなのかなと、頭のすみっこで考える。
ねえ、ちょっと貸してみてよ。あたしが修理できるかも。
工具箱に手をのばして金づちを取る。
──三咲。
……!
瞬間、あたしはどきりとして動きを止めた。
あたしの名前を呼びながら、ジュゼが金づちを持った右手にそっと触れたからだった。
両手で、大事なもののように包みこまれる。
それは私の仕事だよ。
それに、絵描きの手だ。できるだけ大事にしていた方がいい。
さっきの柔らかい触れ方は、万が一にもあたしが驚いて金づちを落っことしたりしないためのものだった。
……ジュゼの手だって、同じなのに。
私は君より年寄りだし、今、君はとても大事な時期だからね。
まぁ、三咲が気に入っているなら、この椅子にはもう少し頑張ってもらおう。
…………それより、私にも三咲と同じ質問をさせてもらえるかい?
えっ……?
今日は何かあったのかな?
どことなく、昨日とは雰囲気が違う。
ジュゼの一言で、あたしの胸はじわっと熱くなった。
(いつもとちょっと違うって気付いてくれたんだ)
クラスメイトの女の子の指摘された時は驚いただけだったのに、ジュゼに言われると心拍数がとくとくと上がる。
…………決めたんだ、あたし。
うん?
後ろ手に指を組んで、緊張を紛らわすように人差し指をぎゅっとにぎる。
父さんと同じ、K美大に入って、もっと絵の勉強をする。
…………。
学校の先生にも、今日ちゃんとそれを言ってきたの。
ジュゼのくすんだグリーンの瞳が数秒見開かれる。
やがて、それは優しげに細められた。
自分で自分の道をしっかり選んだんだね……。
本気で決断するのにはとても勇気がいったはずだ。頑張ったね、三咲。……もちろん、私も応援するよ。
ジュゼの温かい励ましの言葉を聞いてあたしの胸はいっぱいになった。
(嬉しい……ジュゼも、先生もみんなが認めてくれた……)
ふふ、これからもっと忙しくなるね。
でも……最近の三咲の絵には迷いがないから。どんな学校であろうと君はきっと合格するだろう。
ありがとう……! でもあたし、自分がまだまだだと思うの。
いつもの絵画教室用の作業着が入ったバッグを持って、くるりとジュゼに振り返る。
ジュゼには教えてもらわないといけないことが、いっぱいあるから!
どんなささいなことでも、逆に難しいことでも、とにかく何でも教えて。
絶対途中で投げ出したりしないし……全力でやるから!
……わかったよ、三咲。君が望むなら、私もできる限りやってみよう。
……それからあたしは、今まで以上に真剣にジュゼに教えをこうようになった。
何度もやったと思う基本を、もう一度最初からおさらいしてジュゼの言葉に耳を傾ける。
まるで一から教えてもらう小さな子供のように、あたしはジュゼの知識や技を吸収しようと貪欲になった。
そんなあたしに、ジュゼは根気よく付き合ってくれて……。
二人で過ごす濃密な時間を、あたしは心から大切にした。
一分一秒を胸に刻むようにして……今のあたしの全てを絵筆にぶつけた。
それが美大に受かるためのものなのか、それ以外の目的なのか、自分自身でも答えを出さないようにしながら……。
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北野坂
……あ! やっちゃった。携帯忘れちゃったよ。
その日もあたしは夜遅くまで絵画教室でキャンバスに向かっていた。
疲れはするものの、今までに無い充足感のある毎日だ。
けれど、絵のことに夢中になりすぎて今日はつい忘れ物をしたらしい。
(携帯が手元にないと落ち着かないタイプでもないけど……一応取りに行くか)
【==== 絵画教室 ====】
もう誰もいない教室に、あたしはそっと戻った。幸いまだジュゼはカギを閉めてなかったようで教室には普通に入れた。
(……あれ?)
その時、小さな物音があたしの耳に届く。
(ジュゼ? 近くにいるの?)
あたしはそーっと教室のドアから周囲の様子を窺った。
そして、アトリエの方の明かりがついていることに気付く。
…………。
しんと静かな教室の中……。自分の心臓がどくりと鳴った音が耳に聞こえた気がした。
(毎日遅くまで、絵の勉強をして……)
(ジュゼも熱心に付き合ってくれて、あたしはすごく充実しているけど)
(それって、あたしがジュゼの色んな時間を削っているってことだ……)
明かりがもれるアトリエの扉をじっと見つめる。
脳裏をよぎるのは、いつか一瞬見た女性が描かれたキャンバスだった。
(若い外国人の女性の絵……)
(……ジュゼ、あたしが帰った後にあの絵を仕上げているのかな?)
……………………。
あたしは出来るだけ物音を立てないようにして、絵画教室を出た。
・
・
・
【==== 絵画教室 ====】
…………あの、ジュゼ……。
ん? 何だい? 何かわからなくなったことがあった?
次の日も、あたしは学校が終わってからすぐに絵画教室に来た。
他のみんなと一緒に通常の指導を受けた後、居残って受験用の課題を進める。
教室を貸してくれるだけじゃなくて、ジュゼは当然のようにあたしのそばに来て指導を続けてくれた。
昨日まではそれが嬉しかったけど、今日は少し違う。
(あたし、なんで気付かなかったの?)
(ジュゼの顔色……全然よくないのに)
一体いつからそうだったんだろう。
絵画教室にこもっているために元々白かった頬は、さらに血色悪くなって目の下にはクマもある。
あたし、今日は早めに帰るつもりだから。
どうしたんだい? 何か用事でも?
それとも、気分がのらない理由でもあるのかな?
別に……このところちょっと根をつめていたし。
確かにそうだけど……じゃあ、少し気分転換でもするかい?
え……?
近くにおいしい料理を出す店があるんだ。ちょっと変わったマスターがやってるんだけど……。
それじゃ結局意味ないよ……。
えっ……?
…………。
あたしのことは気にしないでいいから。
三咲……?
……もしかして、私に何か遠慮しているのかい?
……………………。
そうやって黙り込むってことは図星かな?
……ジュゼ、顔色悪いよ。夜遅くまで毎日あたしに付き合わせてごめん。
胸の中に、例の絵を描く時間もないでしょ……という言葉が一瞬浮かんだけど、それはさすがに言わなかった。
椅子に座ってうつむきがちなあたしを見下ろして、ジュゼは静かに微笑む。
大丈夫だよ、三咲。
ぽんと、優しく頭の上に手のひらを置かれる。
三咲が頑張っているから、私も好きで頑張っているだけだよ。
顔色が悪く見えるかもしれないけど、気持ちは全然疲れていない。
でも……。
本当に私のことは気にしなくていい。三咲、今は自分のことをちゃんと考えるべき時期だよ。
…………。
でも、三咲がどうしても心配だというのなら、今日はここまでにしよう。
うん……。
あたしは小さくうなずいてから、広げていた道具やキャンバスを片付けだした。
これで少しでもジュゼが休んでくれればと、そんなふうに思う。
(ん……?)
その時、カシャンという何か軽い物音が聞こえた。
何だろうと思って辺りを見回して……あたしはざあっと顔を青くする。
聞こえた物音は、ジュゼの眼鏡が床に落ちた音だった。
そしてジュゼは……近くの棚に力なく寄りかかって、今にも倒れそうになっていたのだった。
…………っ!! ジュゼ……っ!!
ジュゼの姿を見た瞬間、ちかちかと頭の中で何かが明滅する。
悲しげな横顔……途切れ途切れに聞こえる泣き声……。
冷たい何かがあたしの中で急速に膨れ上がっていった。
誰か……っ、誰か助けて……!!
ジュゼが……ジュゼが……っ!!