イタリア館
~5話~

イタリア館

三咲にねだられるように昔話を続けていた私は、壁に掛かっている時計の時間に気付く。

ジュゼッペ

おや、もうこんな時間か。

それほど話したつもりはなかったが、歳をとると話が長くなっていけない。

そんな自嘲をしつつ三咲を振り返ると、彼女は椅子に座ったまま机に突っ伏すようにして眠っていたのだった。

まるで子どものようなあどけない寝顔。
自分の口角が自然と持ち上がったのがわかった。

ジュゼッペ

おやおや……。少し退屈だったかな。

耳を澄ませば、三咲の穏やかな寝息がアトリエに響く。

幼い少女のようなその寝顔は、時折普段の大人びた女性の顔を覗かせ、私を驚かせる。

ジュゼッペ

(本当に、見ていて飽きない子だ。私にも娘がいたら、このくらいの年頃なのだろうな)

ジュゼッペ

(……っと、柄にもなく家族のことを考えてしまったな。さっき、余計な話をしてしまったからか)

ホームシックにかかる人間はこういう感覚なのだろうなと思いつつ、彼女の寝姿を三度見やった。

ジュゼッペ

(だが、このままにしておくのも問題がありそうだ……)

少し迷ったが、硬い木の椅子で寝苦しそうにしているのを見て、教室にあるソファへと運んでやろうと思い立つ。

起こさないように意識しながら、そっと三咲の体を抱き上げた。

ジュゼッペ

(思ったよりも軽いな。おおっと、余計なことは考えないほうがいいな)

ジュゼッペ

(今の情報は忘れることにしよう)

抱きかかえた際に、三咲の整った顔が私の目の前に見えた。

ジュゼッペ

……!!

寝顔を間近でよく見ると、三咲の目にうっすらと涙が浮かんでいることに気がついた。

ジュゼッペ

三咲……。

【==== 絵画教室(夜) ====】

ソファまで運びそのまま優しく横たえると、上からそっと毛布を掛けてやる。

涙を浮かべてはいたが、落ち着いた様子で三咲は眠っていた。

ジュゼッペ

(最近は色々な悩みを抱えているようだったからな……。私の話で落ち着いたとも思えないが、今はよく眠っている)

ジュゼッペ

(……下手に起こして帰すよりは、このまま少し休ませてあげよう。そのうち起きるかもしれないしな)

ジュゼッペ

…………。

そっと指を伸ばし、涙をぬぐってやる。
すると三咲は寝返りを打って、小さく言葉をもらした。

三咲

……父さん……。

ジュゼッペ

…………っ!!

三咲の口から漏れたその言葉に、私は目を細めながら、もう一度彼女の愛らしい表情を見返したのだった。

ジュゼッペ

(父さん……か……)

その呟きは、普段の三咲の口調よりもいくらか頼りなげに聞こえた。

ジュゼッペ

(一見同年代の子よりも大人びて、しっかりした子に見えても……三咲の中ではまだ父親が生きているんだな)

ジュゼッペ

(……ぶっきらぼうな所もあるが、心根の優しい子だ)

ジュゼッペ

(母親のことと同じくらい、亡くなられた父親のことも今も大切にしているのだね……)

ジュゼッペ

(三咲が描く線に時折見えた力強い優しさの根源は、それだったということか……)

穏やかな寝顔をもう一度見下ろした後、私は静かにその場を離れた。
三咲を起こしてしまわないよう、とりあえず奥の部屋に向かう。

ジュゼッペ

……!

その途中、ふいに絵画教室で使っている大きな鏡が目に入った。

ジュゼッペ

…………。

……三咲の影響だろうか。普段は気に留めることすらないその鏡に、何故か足が向かう。

覗き込めば、そこにはすっかり白髪としわが目立つようになった男が映った。

ジュゼッペ

(…………私も歳をとったな……)

三咲に語った思い出話の中にいた姿とは大分変わってしまった。

そのことに喜びや焦りはなく、ただただ時間の流れを感じる。

ジュゼッペ

(……おっと。センチメンタリストではないと、三咲に言ったばかりなのに)

私は苦笑して鏡の前から離れた。

ジュゼッペ

(少しだけ何か飲むか……三咲が起きるまでにはもう少しかかるだろう)

ジュゼッペ

(香りの強いものがいいな。ついでに考え事はやめておこうと思うような、辛めのやつがいい……)

【==== 絵画教室 ====】

差し込む日差しをまぶたに感じてあたしは寝返りを打った。

三咲

……ん。

三咲

(もう朝か……)

いつの間に寝てしまったんだろうと思いながら薄目を開ける。

三咲

……あれ?

だんだん焦点が合ってきた瞳に飛び込んできた景色は、見慣れた自宅の天井ではなかった。

三咲

えっ、何……どういうこと!?

びっくりして飛び起きると、嗅ぎ慣れた油絵具の匂いにはっとする。

三咲

ここって、まさか……。

掛けられていた毛布を片手に、誰もいない部屋の中、ソファに横たわったまま昨日の記憶を手繰り寄せていく。

三咲

(忘れ物を取りに来て、ジュゼの昔話を聞いているところまでは思い出せるんだけど……)

三咲

まさか、そのまま寝ちゃったとか……!

三咲

(それに奥のアトリエにいたはずなのに教室のソファにいるなんて)

三咲

……ひょっとして、ここまでジュゼが運んでくれたの!?

抱きかかえられたのかもしれないと気付いて顔が赤くなるのと同時に、胸がぎゅっとした。

三咲

でも、全然記憶にないや……。

複雑な気持ちで朝日が差し込む部屋に、ぼんやりと視線をさまよわせる。

三咲

あっ……ええっ……!!

いつもの絵画教室の部屋に変わりはないのに、目に飛び込んできた光景はいつもと全く違って見えた。

普段気に留めていなかった美術品や調度品たち。
そこに、きらきらと朝の光が差し込み部屋全体がきらめく姿は、息をのむほど美しかった。

三咲

……何…これ。

じんわりと発光するような明るさに満ちた館の中は、いつの間にか異国のような雰囲気になっていた。

三咲

こんなに綺麗だったの……。

自然の光で陰影が際立つ美術品たちの圧倒的な存在感に言葉を失ってしまう。

三咲

(昼間に見るそれと、朝日を受けて見える表情がこんなに違うなんて!!)

それは単に光量や湿度の違いといったものだけではなく、作品そのものが見せる“顔”が違うのだった。

今まで物事の表面しか見ていなかったことに気付かされた気がして、心が強く揺さぶられているのがわかる。

無我夢中でそれらを眺めていたあたしは、部屋のドアが開いたことにも気がつかなかった。

ジュゼッペ

おや、起きたのかい?

静かに開いたドアから、ジュゼが遠慮するように入ってきた。

三咲

あっジュゼ、おはよっ!

あたしは一瞬ジュゼに目線を向けた後、すぐに部屋の光景に戻した。

偶然見つけたこの奇跡みたいな美しさがすぐに消えてしまうんじゃないかと思い目が離せなかったからだ。

そんなあたしを見て、ジュゼはくすりと笑った。

ジュゼッペ

綺麗だろう? この部屋は、時間帯によって光の入り方が違うからね。

ジュゼッペ

置いてあるものも普段とはまた違う印象を与えるんだよ。

三咲

そうなんだ……。

ジュゼッペ

意外だったかい?

三咲

うん。ちょっと、びっくりした。

ジュゼッペ

こういう身近なところにこそ美しさの本質があり、芸術の奥深さを感じるね。

三咲

美しさの……本質……。

その言葉に、館が見せてくれたこれまでの日常とは違う“モノの見方の違い”で本質に気付くことができるということ。

そして、本質に触れた心を感動させるものこそが、まさに芸術だと思えた。

三咲

あたし、間違ってたんだ……。

ジュゼッペ

何がだい?

三咲

この前、芸術は『感性の物差しだ』なんて偉そうなこと言っちゃったけど、そうじゃなかったんだね……。

ジュゼッペ

絵や美術品は見る心によって受け取り方もさまざまだ。何が正解で、何が間違っているかは誰にもわからないよ。

三咲

そんなものかなあ。

するとジュゼは、元気付けるようにあたしの背中にそっと触れて微笑んだ。

ジュゼッペ

製作者の意図が必ずしも正解とは限らない。何かを感じ取る心が大切なんだ。

ジュゼッペ

だから、今の三咲が綺麗だと感じたことそのものに意味があるんだよ。それは人それぞれ違うことだからね。

三咲

そうなんだね……。じゃああたしにも少しはそれを感じることができる力があるんだ。

芸術を製作者の理念の押し付けと感じ、『感性の物差し』だと言った過去の自分が恥ずかしい。

心を満たしたり、感化させるものが絵画や芸術にあるなら、父さんの絵から語りかけてくるものが何なのか、あたしにも少しわかったような気がした。

三咲

(……父さんもこういう世界に住んでいたのかな? だとしたら、やっぱりあたしもその世界を見てみたい……!)

ジュゼッペ

おっと、言い忘れていたが、三咲の家には連絡してあるから安心しなさい。

ジュゼの言葉を耳で聞きながら、あたしはまたプリズムのように反射する光と部屋の美しさに見とれてしまう。

三咲

わぁ……。

今まで理解しようともしなかった美術品たちが、まばゆいほどに煌(きらめ)いて見える。
口元には自然と笑みがこぼれていた。

あたしは湧き上がる気持ちを抑えられなくて、近くにあったスケッチブックを取り、鉛筆を走らせた。

ジュゼッペ

おやおや……。

こんなに夢中でスケッチをするのは初めてかもしれない。

とにかく今は、急いでこの美しさや感動を描きとめたかった。

三咲

……芸術っていうのは、見えない心や表情を見たり聞いたりすることなんだね。

三咲

けどそれは、受け取る人によって違う。……でしょ、ジュゼ?

ジュゼッペ

……ふふふっ、生意気だ。

あたしの頭にぽんと手を乗せてジュゼが苦笑する。
でもその表情は、どこか満足そうで、見守るような優しい瞳をしていた。

三咲

…………。

三咲

(ちょっと、嬉しい……かな)

朝日の中で見つけた感動や美しさ、ジュゼと2人で過ごしているこの時間を全てスケッチに写し取りたい。

あたしはジュゼの視線を感じながら、満たされた気持ちで鉛筆を走らせたのだった。

高校廊下

キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン~~~♪

授業が終わると、足早に教室を抜け出す。

ジュゼのアトリエに泊まった日を境に、絵画教室での勉強がどんどん楽しくなっていった。

三咲

(絵を描くことの面白さや、もやもやしてた“芸術”の考え方に自分なりの答えを出せたからかもしれないな)

三咲

(今はもっと絵を勉強したいって素直に思える)

それまで進路のことで悩んでいたけど、それがまるで嘘だったように、すっきり迷いが晴れた、そんな気分だった。

三咲

(この気持ちは、ジュゼの近くにいたいから……じゃないよね。未来のあたしにできること、父さんのようになりたい)

そんな自分の未来に思いを馳せながら、あたしは校門をくぐった。