ー???ー
—————ガチャ。
突然ノックされた開かれた扉からうやうやしく現れたのは……。
ええっ……!?
失礼いたします。お目覚めはいかがですか?
予想を覆す、まさかの老紳士だった。
昨晩は突然お坊ちゃまがあなた様を抱きかかえて帰ってこられたので、大変びっくりいたしました。
思いっきり動揺している私には全く動じずに、にこやかにそう言うと、
老紳士は手にしていた銀のトレーをそっとサイドテーブルに置いて食器のカバーを外す。
するといい匂いと共に、目にも鮮やかなサラダに、ふんわりとしたオムレツやソーセージが現れる。
朝食をお持ちいたしました。
朝食!? あの、すみません。一体ここはどこなんでしょうか。
ここですか? こちらはハリヤー邸でございます。
申し遅れました。わたくしこのお屋敷の執事をしております。
執事さん、ですか。
はい。
(すごい。“執事”っていう職業の人に実際に会うの初めてだ)
(確かに身なりやたたずまいもすごく品がいいし、高級ホテルのラウンジとかにいそう)
昨晩はかなり酔われていたようですが、お嬢様は燐お坊ちゃまのご学友ではないのですか?
燐お坊ちゃまって、あの、金髪でハーフの……?
はい。燐・M・ハリヤー様です。
(やっぱり!!)
ええっと、昨日は本当にすみません! お恥ずかしい話ですが、私、全然記憶がなくて。
その……り、燐さんとは、同じ大学ではあるんですが……。
まともに会話をしたこともない、燐という人の名前を、少し緊張しながら発音する。
しどろもどろになりながら、何とかこれまでの事情を話すと、執事さんは納得したような顔をしてくれた。
そうでございましたか。ご無事でなによりです。
あ、あと……このネグリジェなんですが……。
もう一つ気になっていたことを切り出そうとすると、執事さんが優しく微笑んだ。
ああ、こちらはお嬢様が寝苦しそうでございましたので、メイドたちのほうで着替えさせていただきました。
もちろん新品でございます。驚かせて申し訳ございません。
そうだったんですか。ありがとうございます。まだ燐さんにも、きちんとお礼を言えてなくて。
お坊ちゃまは、実はまだ就寝中でございまして。
それでは大学で改めてお礼を言わせていただきます。よろしくお伝えください。
かしこまりました。ところで体調はいかがですか? もし朝食をお取りになるようでしたらぜひ。
お気遣いありがとうございます。体調は少し頭痛がするくらいなので、もうほとんど大丈夫です。
なるほど……頭痛ですか。少々お待ちくださいませ。
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・
こちらのハーブティをどうぞ。頭痛に良く効きます。
執事さんは頭痛がする私のために、わざわざ鎮静作用のあるハーブティを淹れてくれた。
すごくおいしいです! それに落ち着くいい香り。
近所で評判のレストラン、パラスティン邸のハーブティでございます。
コース料理もケーキも絶品の、大変信頼できるレストランです。
(そんなお店がこの近くにあったんだ)
執事さんのおかげで、私はお洒落な朝食を食べながら、優しく和んだ気持ちになっていた。
︙
美味しくて優雅な朝食を食べ終えた後、私は慌てて身支度を整える。
(知らない部屋で着替えるのって少し緊張するな)
急いで着替えると、私は別室で待っていた執事さんにお礼を言って、豪華なハリヤー邸を後にした。
・
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・
ー大学廊下ー
(豪邸からそのまま大学に来たせいか、何だか落ち着かないな)
(それに……)
ちらりとバッグの中を覗く。
そこには、慌てたせいで間違えて持ってきてしまった、例のネグリジェが入っていた。
(やっちゃったなあ〜。助けてもらったお礼も本人にまだ言えてないのに)
次の講義までまだ時間があったのでそんなことを考えながら、廊下をゆっくり歩く。
すると、途中の空き教室に見覚えのある人物が見えた気がして、はっとした。
(まさか。今、一人で教室に座っていたのは……)
そっと教室に近づいてその人影を確認する。
(……やっぱり、燐さんだ)
うつむいてスマホをいじりながら、妙に近づきにくい雰囲気を発していたのは、間違いなく彼だった。
(いつもいる取り巻きもいないし、お礼を言うなら今かも)
ー大学教室ー
私は恐る恐る教室に入って声をかける。
す、すみません。昨日助けていただいた者ですが、覚えてますでしょうか?
消え入りそうな声で何とかそう言うと、燐さんはちらりとこちらを見て、また手元に目線を戻した。
ああ。昨日の酔っ払ってた子か。
うっ……。その節はすみません。助けていただいて本当にありがとうございました。
ええと、泊めてまでいただいたようで……ご迷惑をお掛けしました。
あと、お借りしたネグリジェをうっかり持ってきてしまったんですけど、今度洗ってちゃんとお返ししますので。
………。
しかし相変わらず燐さんは、私の話を聞いているのかいないのか、無表情でスマホを見ている。
(……な、なんなのこの空気! やっぱり住む世界が違う感じがする)
執事さんにもお世話になって感謝してます、とお伝えください。そ、それでは!
早口でお礼を伝え終わると、早々に立ち去ろうとする私の背中に燐さんの声が刺さる。
……おい。
えっ、何でしょうか……。
それだけ?
は、はい……。何か足りなかったでしょうか……?
怯えつつ聞き返すと、燐さんの青い瞳が初めてしっかりと私を見据えた。
そ、そうだ! あと一緒になって助けてくれたお友達にもありがとうとお伝えください。
友達?
燐さんのお友達じゃないんですか? あの、英語が上手な……。
ああ。別に友達じゃないよ。偶然居合わせたっていうの?
この辺りには外国人やハーフの人が多く住んでて、助け合いみたいなとこあるからさ。
まあ、そういうこと。
へえ……。そうだったんですか。どおりで英語が堪能だと思いました。
ていうかさ。燐さんて呼び方、何?
えっ。あ、慣れ慣れしくてすみません。ハリヤーさんのほうがいいですよね。
いや、たぶん同い年だろ? 燐でいいよ。
ええっ、それはあまりにも急では……。
へー、さっきからこの俺にその反応?
え……?
その言葉の意味がわからず動揺する私の肩を軽く掴むと、燐さんはニヤッと笑った。
そしてそのままからかうように、その端整な顔を近づけてくる。
ちょっ!? 何するんですか! は、離してください!
私は真っ赤になって、燐さんから逃れようと顔を背けた。
……ふーん。やっぱり本気で驚いてるんだ。面白いな。なんかちょっと新鮮。
燐さんは面白いものを見るような目で微笑むと、ぱっとその手が離された。
面白い? 新鮮?
いや、悪かった。何でもないよ。なんかお前って、本当に変わってるな。
他の女にこんなことしたら、喜んで『燐~』って呼び捨てにして抱きついてきそうなものだけど。
(一体どういう文化なの……)
あの、呼び方についてはやっぱり慣れないので少し抵抗はあるんですが、『燐くん』……ではどうでしょうか?
まあ、それでもいいけど。——あとさ。
は、はい?
お前、名前何ていうの?
!!! すみません申し遅れました! 須磨 美結(すま みゆう)です!
じゃあ美結でいいか。ていうかさっきから妙な敬語だけど、もっと普通でいいよ。
…………!!
またな、美結。あんまり酒飲みすぎんじゃないぞ。
燐くんは笑いながらそう言うと、そのまま機嫌よく立ち去っていった。
……行っちゃった。
慣れないノリと展開にあてられて、私はしばらくそこから動けずにいたのだった。
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ー大学中庭ー
燐くんと教室で会話をしてからしばらく経ったが、私は未だにネグリジェを返すタイミングを見つけられずにいた。
今日も遠くで楽しげに仲間たちと会話をしている燐くんが視界に入る。
(毎日必ず誰かが一緒で、ちょっと近づけないよね……)
(ネグリジェを返そうとしているのが仲間にバレて、変に誤解されるのだけは避けたいし)
(かといって、メアドとかも知らないし。うーん……。)
(でも遅く返すほうが失礼な気がするし、ハリヤー邸に直接返しに行こうかな?)
(きっと執事さんが出てきてくれそうだし、そのほうがいいよね)
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ーうろこの家ー
執事さんに絶品だと教えてもらった、パラスティン邸のテイクアウトケーキを持って、私はハリヤー邸を訪ねる。
これはこれは。わざわざ届けてくださってありがとうございます。
いえ! 本当に長々とお借りしてすみませんでした。燐くんにもよろしくお伝えください。
これ、パラスティン邸のケーキです。よかったら食べてください。そ、それでは私はこれで……。
深々とお辞儀をして立ち去ろうとした、その時だった。
おい、美結。ちょっと待て。
2階から全てを見ていたらしい燐くんが、不機嫌そうな顔で上から降りてくる。
俺を呼ばずにそのまま帰ろうとしてたみたいだけど。
ああっ、ごめんなさい! 本人に直接お礼を言うべきでした!
いや、そういうことが言いたいんじゃなくて。
……なるほど。本当に俺が目当てで来たわけじゃないんだな。
???
じゃあ聞くけどさ、俺とこの執事。どっちのほうが男として魅力ある?
は……?
質問の意図がわからなかったが、燐くんは至って真面目な顔で質問をしてきている。
うーん……。男としてというか、執事さんのほうが色々なことに精通してるし、年の功というか……。
この前もハーブティや素敵な朝食を美味しくいただいてしまって。
……!! もういい、わかった。
これはこれは、恐悦至極に存じます。それではせっかくですから、このケーキでお茶にいたしましょう。
えっ?
執事さんは妙に脱力している燐くんと不思議そうな顔をしている私を交互に見ると、にっこりと目を細めた。
・
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・
ーうろこの家リビングー
目の前にはいい香りの紅茶と、果物と生クリームで綺麗にお皿に盛りつけられたお土産のケーキ。
そして向かいの席には、もぐもぐとそのケーキを食べる燐くんが座っていた。
なかなか美味いケーキを知ってるんだな。
あ、これ。執事さんが教えてくださったお店なんです。
………またあいつか。お前、年寄り好きなんじゃないのか。
えっ?
な、何でもない。もういい。美結の素性を話せ。
素性と言われても……。借りたネグリジェを返しにきただけで。
自分のことを話してくれればいい。同じ大学だろ? 飲み会とかで見たことないしな。
私はチア部で、今は大会予選に向けて必死で練習中で、そもそもコンパとかはあんまり。
チアは公園で自主練習もしてるけど、なかなか上手くいかなくて。今はちょっとスランプかも。
練習は辛いけど、みんなで頑張るのはすごく楽しいかな。
へえ。そんなに必死に練習してるのにダメなのか。
うっ。
チアの何が面白いのかはさっぱりわからないけど、そんな風に打ち込めるものがあって羨ましいな。
想像もしなかった燐くんのコメントに固まってしまう。
お坊ちゃまは、気に入らないお方をこの館には入れません。本当に羨ましいと思っておいでです。
執事さんがニコニコしながらフォローする。
あ、悪い。別にバカにしたわけじゃない。
その……執事の言う通り、本当に羨ましいなと思ったから言ったんだ。
(本心だったんだ……)
何ともいえない感覚の違いにショックを受けたけれど、確かに燐くんは悪気があって言ったのではなさそうだった。
お前にはまだ気になることがあるんだ。
ええっ……。
ハリヤー邸での不思議なティータイムはまだ終わりそうになかった。