ねえ、住職さん。わたしの話を……聞いてくれる?
月明かりの下。
わたしの質問に、彼はふわりと柔らかく笑みを返してくれた。
もちろんです。私はそのためにいるのですよ。
……ありがとう。
住職さんはわたしのそばまでやってきて、品の良い仕草で腰を下ろす。
彼が座り終えると、衣擦れの音も縁側が軋む音も止んで……
静けさの中、わたしはぽつぽつと語り始めた。
わたしね……大おばあさまが、大好きだったの。
わたしが海外暮らしになってからは顔を合わせることも少なかったのに、時々日本から、わたしの好きなお菓子を送ってくれて……
年賀状や写真を送ると、いつも丁寧なお返事をくれたわ。
大おばあさま、すごいのよ。携帯やパソコンだって普通の若い人以上に使いこなすんだから。
可愛い絵文字を使ったメールとか、この町を撮った動画なんかも、よく送ってくれて……
ホームシックになりそうな時、すごく心の支えになったの。
…………
住職さんは、見守るような眼差しで、黙って聞いてくれていた。
……大おばあさまの具合が良くないって聞いて、帰ってきたのは、1週間くらい前だったわ。
もうすぐお迎えが来るんだ、でも悲しいことじゃないんだよって言いながら、わたしに笑ってくれた。
昨日まではお話もできたのよ。手を握ってくれて、柔らかくて、温かかったのに……
…………
小さな吐息が、夜風に紛れて消えていく。
おばあさま、本当にもういないのね。
こういう言い方は変かもしれないけど、わたし、大丈夫だと思ってたの。
悲しくても、涙が出ても、きちんと受け止められると思ってたの。だってわたし、もう大人だから。
なのに……火葬が終わって、大おばあさまがお骨になったのを見た時、何だかすごく……ショックだったの。
本当に、本当に、もういないんだなあって……その時わかった気がしたのよ。
もちろん、周りの人達も泣いてたわ。それでも思い出話をしたりして、つらさを癒やし合って……
精進落としのお席についた時には、一段落ついた感じで、皆、落ち着いてた。
……ええ。
…………あのね……それが悪いとか、変だとか言ってるわけじゃないの。
でもわたし、どうしたらいいかわからなかった。わたしだけずっと泣いてるわけにもいかないし……
誰かと思い出話をしたくても、わたし、ずっと海外で、ひとり暮らしだったから。
わたしが持ってる大おばあさまとの思い出は、他の人よりずっと少ないの。
皆が話してる大おばあさまとの思い出を、わたしは知らないの。
でも、知らないなら教えてもらって、そうなんだって頷けばいいと思うのに、それもできなくて……
…………
……直さんは、トメさんのために、一生懸命だったんですね。
わたしの話を聞いて最初に彼が呟いたのは、そんな言葉だった。
でも……すぐには意味が理解できず、ぽかんとしてしまう。
……え……?
(大おばあさまのために、一生懸命?わたしが……?)
トメさんが、悲しむことはないと仰っていたから……
トメさんが、湿っぽいのは性に合わないと仰っていたから、直さんは、あんまり悲しんじゃいけないと思っていたんじゃないでしょうか。
泣いてばかりじゃトメさんが安心して極楽浄土へ旅立てない、すぐに立ち直らなくちゃいけないと、思っていたんじゃないでしょうか。
…………
でも、そうやって頑張っていた分、強い悲しみが、他の人より遅れて来てしまったのでしょう。
ただ、タイミングがずれただけです。何もおかしいことはありませんよ。
……わ、たし……
…………それに直さんは、もしかしたら他の皆さんにちょっと気が引けていたのかもしれませんね。
外国にいたから、長い時間をトメさんと過ごしたり、思い出をたくさんは作ることができなかった。
具合の悪いトメさんをずっとつきっきりでお世話したり、頻繁にお見舞いに行くこともできなかった。
…………
今思えば、もっとたくさん話をしておけばよかった。もっと会いに行けば良かった。
でも、後悔してももうトメさんとは会えないんだ……
…………
すごく、不思議だった。
彼の言葉は深く心に入ってきて、もつれていたものをするすると解いてくれる。
…………うん……
そう言われてみれば……そうかもしれない。
わたし……そうやって、後悔してたのかもしれない。
わたしは指先で涙を拭うと、思わず住職さんの方へ身を乗り出した。
住職さん、魔法使いみたいだわ……
自分でも気付いてなかった、わたしの気持ちを見通してしまうなんて。
……いえ、いえ。
私が優れていたり、何か特別な力があるから、わかったわけではありませんよ。
全部、皆様から教えて頂いたことです。
皆から教えてもらった……?
ええ。悩んでいる方の気持ちに寄り添えるようにとどんなに想像を膨らませても……
やはり私のような若造が頭の中で考えただけでは、本当に人の気持ちを推し量り、共感するのには足りません。
ですから、僧侶として生きる日々の中で出会った皆様を教師として、私は日々、たくさんのことを学ばせて頂いているのです。
幸せに満ちている方。悲しみを背負っている方。道に迷っている方……
そういった人達から色々な気持ちを打ち明けてもらったからこそ、こんなふうに感じる方もいらっしゃるんだと、考えや思いの幅が広がったのですよ。
だから直さんの気持ちも、私が見抜いたわけではありません。
直さんと同じように、故人と別れてから『もっとやれることがあったのでは』と後悔した、何人もの方……
そんな皆様から聞かせて頂いた話を元に、直さんもきっとこう思っているのだろう、と考えただけなのです。
…………そう、だったの。
へえ……と感心しながら、わたしはどこか、救われた気持ちになるのも感じていた。
……わたしと同じように後悔する人が、他にもたくさんいたのね。
もちろんです。だから直さんの悲しみも、変なことや、間違ったことではないんですよ。
それどころか、いま直さんが『自分だけじゃないんだ』と安心したように、直さんの悲しみが巡り巡って、いつか他の誰かを救うかもしれません。
苦しさ、つらさにいつまでも囚われてしまうのはいけないことですが、思いに区切りをつけるために、悲しむ時はしっかり悲しむ……それも、大事なことだと思います。
…………
わたしは少し黙ってから、瞬きを繰り返す。
悲しむのは、おかしいことじゃないんだ。
(じゃあ……)
……じゃあ、わたし、思いっきり泣いてもいいの?
ええ。
…………
わたしは立ち上がって、住職さんの後ろへと移動した。
彼と背中合わせになるような位置で再び腰を下ろすと、彼はきょとんとこちらを振り返ろうとする。
……? 直さ……
わたし、一応レディーだもの。
子供みたいに泣くところ、見られたら恥ずかしいわ。
……でも……
……でも、そばにいてくれる?
…………
…………ええ。
住職さんが、こちらを見ないまま、顔を前に戻したのがわかる。
彼の優しさが、じんと伝わってくる。
…………っ……
う……
ぅ、……わあああ……っ……
大おばあさま……っ……
素直に、明けすけに、わたしは泣きじゃくっていたから……
もらい泣きした住職さんが、こっそりと涙を拭っているのには、気付かなかったのだった。
・
・
・
すみません、戻りが遅くなりまして。
しばらくの後、私は直さんと一緒に客殿へ戻っていた。
近くにいた伯母さんに、直さんがぺこりと頭を下げる。
勝手にいなくなって、ごめんなさい……
ああ、ありがとうございます、和尚さん。直ちゃん、迷ったりしなかった?
うん。ちょっとひとりになりたかっただけなの。でも、もうすっきりしたわ。
そう……それは良かった。
直さんの目許が赤いことは見ればわかっただろうけれど、伯母さんはそれを指摘する事なく、優しく頬を緩めた。
別の親戚の女性も、テーブルを示して、明るく手招きする。
直ちゃん、お料理美味しいわよ。せっかくだし頂いたら?
うん、そうするわ。……でも……
わたし、住職さんの隣がいい。駄目かしら?
…………
彼女の言葉に、近くにいた方々の視線が同じところへ集まる。
そう……私の法衣を握って離さない、直さんの手に。
……あらあらまあまあ。
ほほほ、じゃあお料理、そっちに持っていってあげましょうか。
(何だか面白がられている気がしますね……)
(嫌なわけではないのですが、何だか気恥ずかしいというか)
苦笑してしまいつつも、周囲に促され、直さんと並んで座る。
彼女は私の様子には気付いていないのか気付いていて気にしていないのか、ニコニコと手を合わせていた。
頂きます!
…………
(……ふふ、美味しそうに食べるのですね……)
私は既に食事は頂いていたのでお茶だけ飲んでいたのだけれど、横でじっと見ているだけというのも何だからと、口を開く。
……直さん。貴女がトメさんから私の話を聞いていたように私もトメさんから、貴女の話を聞いたことがあるのですよ。
えっ! ……んっ、むぐ……!
だ、大丈夫ですか?
い……いいの、大丈夫よ。それより、そのお話、ちゃんと聞かせて。
お茶をごくりと飲んで喉のつかえを押し流しながら、直さんは真剣にこちらを見上げてきた。
……わかりました。お食事しながら、聞いて頂いて構いませんからね。
トメさんは、いつもご親族のことを誇りに思ってらしたんです。
トメさんが大きくされた会社は、今でも立派な業績を上げていますが、ご親族は決してその名声や、トメさんのお金に甘えることはなかったと聞いています。
会社を継いだ娘さん、お孫さんも、血縁に甘えず、立派な社長となれるよう励まれていたそうですね。
その他のご親戚も、それぞれに自分の道を見つけて自立されて……
……『私のひ孫にはね、若い女の子なのに、海外でひとり暮らしをしてる子がいるんだよ』とも、聞きました。
…………!!
『知り合いもいない場所で不安もあるだろうに、ひとりで頑張ってるんだ』と……
『その子も含めて、頑張りやの家族をたくさん持てたことが、何よりの誇りだよ』と、仰っていました。
…………大おばあさま……
……形式の話ではなく、今日のお式はとても立派なものでした。
皆様、心から、トメさんの冥福を祈っていらっしゃいましたから。
きっとトメさんも、心から喜ばれていることでしょう。
…………
みるみるうちに、直さんの目にまた涙が浮かんでくる。
それをこらえるように、彼女はお料理へ向き直り、何度もお箸を動かした。
……しょっぱいわ。
うぅ、何だか私も、涙が……
もー和尚さん、また泣かせないでよ!
話が聞こえていたのか、小さく鼻をすする音が聞こえる。
でも、やはり皆様の顔には、すっきりとしたものがあって……
ただの慰めや方便でなく、本当にトメさんは喜んでいるだろうと、私はそう思っていた。
・
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浄恋寺
……翌日の早朝。
じゅーしょくさん、おはよー!
おはようございます。気をつけていってらっしゃい。
私はいつも通りに、町の人々と挨拶を交わしながら、門前の掃除をしていた。
すると、ひときわ明るい挨拶の声が届いてくる。
――住職さん! おはよう。
おや……? 直さん、おはようございます。
(こんな朝早くから、どうされたんでしょうか……?)
あ、もしや、昨日何か忘れ物でもされましたか?
尋ねると、直さんはしっかりと首を縦に振る。
うん。っていっても、忘れたのは物じゃないのよ。
昨日、帰り際に聞こうとしてた質問があったんだけど、つい忘れちゃってて。
質問……ですか。ええ、何でもお聞きください。
ありがとう。あのね……
直さんは私の目を見据えて、真面目に問いかけてきた。
お寺のお嫁さんになるのって、どうすればいいの?
…………
…………………………はい?