浄恋寺
~1話~

浄恋寺

清冽な早朝の空に、朗々と経を読む声が響き渡る。

???

我建超世願……必至無上道……斯願不満足……誓不成正覚……

???

……ねえ、明了(めいりょう)。まだ終わらないの?

縁側に腰かける彼女からの問いに、私は空手の型稽古をする手を一旦止めて振り向いた。

明了

もう少しかかりますね。戻って中で待っていてはどうですか?

???

ううん、ここにいるわ。明了のその格好にも慣れたいし。

???

……我於無量劫……不為大施主……

???

…………きゃっ。

ちらちらと指の隙間から上半身裸の私を覗いては、彼女は顔を赤らめる。

???

普済諸貧苦……誓不成正覚……

するとそこで、ぴたりと経が止まった。
それは私が称(とな)えていたものではなく――そして彼女が称えていたものでもなく。

縁側のさらに向こう、障子を開け放ったお堂の中にいる、慶道さんが称えていたものだ。
通いの僧侶である彼は、私と縁側に座る少女を見比べては、ほよほよと頬を緩ませる。

慶道

住職、直さんに懐かれてますねえ。これも住職のご人徳でしょうか。

私も苦笑しながら、目を覆ったままの彼女――西灘 直(にしなだ なお)を見て、首を振った。

明了

いえいえ、これもひとえに御仏のお導きです。

明了

まだ彼女と会って3日だというのに、私などの乏しい『人徳』では……

明了

これほど『迅速』に慕ってもらえるようになるなんてあり得ませんからね!

慶道

……! はっはっは、いやあ、はっはっは!

慶道

なるほど、ジントクとジンソクで……はっはっはっはっは!

明了

う~む、相変わらずの笑いのツボの浅さ……いつもありがたいものです。

慶道

はあ、はあ……。いやすみません、住職の稽古を邪魔してしまいまして。私も勤行(ごんぎょう)の途中でした。

慶道

さて、続きは……

『ガジョウブツドウ、ミョウショウチョウジッポウ、クキョウミショモン、セイフジョウショウガク』よね?

慶道

え……

明了

…………

直はまだ目を細い指で覆ったままで、気楽に足を揺らしていた。

リヨクジンショウネン、ジョウエシュボンギョウ、シグムジョウドウ、イショテンニンシ、ジンリキエンダイコウ、フショウムサイド、ショウジョサンクミョウ、コウサイシュヤクナン……

得意がる素振りもなく、彼女は四誓偈(しせいげ)を途中まで呟いてみせる。

慶道

ええと……直さん、お経を習った事が?

習ったわけじゃないけど、昨日も慶道さんが称えてたでしょう?

直は『いないいないばあ』をするようにぱっと手を開くと、私に無邪気な瞳を向けた。

どういう字を書くのかわからないけど、お経って心が落ち着く響きだわ。

後で漢字と、意味を教えてね、明了。

明了

……ええ……

…………きゃっ! しまった、また見ちゃった……!

あたふたと再び顔を覆う彼女を、私と慶道さんはぽかんと見つめて……
何となく、この一風変わった少女との出会いを思い出していた。

事の発端というか、兆しというか――
最初に彼女を見かけたのは、先週の日曜のこと。

浄恋寺

檀家のおばさん

和尚さん、はいこれ。娘が旅行に行ったお土産にくれたんだけど、ご供養にどうぞ。

明了

やあ、これは申し訳ない。ありがたく頂戴しますね、吉村さん。

掃除をしていた私はホウキを置いて、お菓子を受け取った。

明了

他の皆さんと一緒に頂いても?

檀家のおばさん

もちろんよ。

吉村さんからもらったお菓子を開封して、縁側で世間話をしていた檀家の皆さんや、境内で遊んでいた子供達に配っていく。

男の子

わあい、和尚さん、ありがとう。

明了

どういたしまして。頂きものですから、吉村さんにもお礼を言ってくださいね。

男の子

そっか。吉村さんありがとー!

女の子

ありがとーございます!

檀家のおばさん

うふふ、どういたしまして。

明了

吉村さんも、他の皆さんと一緒にお茶でもいかがです?

檀家のおばさん

そうね、じゃあお邪魔しちゃおうかしら。

柔らかい日差しを受けながら、賑やかな声が広がる。

日々のお勤めや寺務作業を終えた後、こうして近所の人達や檀家さんとお話をするのが、浄恋寺の住職を務める私の日課だった。

明了

(今日も平和で良いことですねえ。さて、私も休憩がてら、お茶を一杯……)

明了

(……ん?)

門前を通り過ぎていく人影に、ふと目を留める。

道を早足で進んでいくのは、高校生くらいの若い女性だった。

明了

(見覚えのない方ですね……。それに、何だか切なげな表情だったような……?)

檀家のおじさん

おっ? 住職さん、どうしたんだい。美人さんでも通ったかね。

明了

え……ああ、いえ。

明了

美人なお姉さま方なら、こちらに大勢いらっしゃるじゃありませんか。よそ見などできませんよ。

檀家のおばさん

んまー和尚さんったら、いつも口が上手いんだから。

明了

お世辞などではありませんよ。田辺さんの凛とした和服姿など、いつも見惚れてしまっているのです。

檀家のおばあさん

あら嬉しいこと言ってくれるねえ。あたしも住職さんは死んだ旦那の若い頃に似てると常々……

檀家のおじさん

わはは。

……その時は他愛ない話に紛れて、さっきの彼女のことは頭の隅に追いやられてしまっていた。

のんびりと会話は続き、近況報告やちょっとした噂、身の上相談に耳を傾ける。
すると……ふいに、吉村さんが心配そうに眉を下げた。

檀家のおばさん

そうだ、トメさん、あんまり具合が良くないみたい。

檀家のおばさん

もうそろそろかもって……

明了

……ああ、私も少しお聞きしました。

話に出た『トメさん』というのは、檀家さんの中でも最も高齢で、かつ有名な女性だった。

彼女は高度経済成長期時代、早逝した旦那さんの代わりに家電メーカーの社長を務め、自社を業界ナンバーワンに押し上げた経歴を持つ豪気なお人なのだ。

もちろん社長職は既に娘さん、そしてお孫さんへと譲られており、トメさんは親族に囲まれた悠々自適の生活を送っていたものの……

さすがにお歳のせいか、去年頃から体調を悪くして、今は病院で安静にされている。

檀家のおばあさん

病気になっても、相変わらずあっけらかんと明るい性格でねえ……

檀家のおばあさん

あたしもお見舞いに行ったけど、『最近の病院食は美味しいわね~』なんて笑ってたわよ。

檀家のおじさん

自分が波乱万丈な人生だったせいか、困ってる人とかを放っておけない人だったもんな……

檀家のおばさん

私も色々、お世話になったり相談に乗ってもらったりしたわねえ。

檀家のおばさん

普段は頻繁に会わない遠方の親戚なんかも、結構集まってきてるって話よ。

顔を見合わせる皆の表情からは、トメさんが慕われているのがよく伝わってきた。

明了

……実はトメさんご本人から、数日前にお電話がありましてね。

明了

自分のお式のことをああしてほしいこうしてほしいと、事前に伝えられているのですよ。

檀家のおばあさん

あらあら……トメさんらしいねえ。

明了

ご親族の方々は縁起でもないからと止めようとされたらしいのですが、

明了

お迎えは誰にでも来るものなんだから、湿っぽく避ける方が性に合わない、と。

明了

それより、準備をきちんとせずにいざその時になってゴタゴタする方が嫌だ、と押し切られたそうです。

明了

電話を切る前には、『じゃあ明了ちゃん、皆にも適当に広めておいて!』と言われまして……

檀家のおじさん

はっはっは、ますますあの人らしいや。和尚さんも赤ん坊の頃から知られてるもんだから、トメさんには敵わねえな。

しんみりした話でも、トメさんの笑顔を思い出すと、ついつい目許が和らいでしまう。

穏やかに眠るようにして亡くなったというトメさんのお通夜と葬儀が、私の寺で行われることになった。

浄恋寺

明了

(さて、そろそろ時間ですか。……それにしても、参列の方が大勢いらっしゃる)

明了

(それに、皆さん悲しみはあっても落ち着いた、明るいお顔で……)

明了

(これも、トメさん自身がお式の次第を取り仕切って、)

明了

(正面からこの時を受け入れていらしたからなのでしょうね)

本堂へ入っていく人の波を見つめていると、その中からひとり、こちらへ駆けてくる。
今回の喪主を務める、トメさんのご長男だった。

喪主

すまんのう、ご住職。渋滞で、何人か遅れてくるようで……

明了

ああ、そうなのですか? それでは少し始めるのを遅らせましょうか。

明了

繰り込み法要の予定でしたが、繰り上げ……火葬の後の法要にしてもよろしければ、定刻通りに出棺できるかと思いますよ。

喪主

ああ、そうしてもらえると助かるが……住職には迷惑じゃないかね?

明了

今日は西灘さんのお家の他に、お式などの予定は入っておりませんので、大丈夫ですよ。

明了

遠方から駆けつけてくださった方なのでしょう。

明了

トメさんが皆さんにとってどういう方だったのか……言葉にせずとも、わかりますね。

喪主

うむ……本当にのう……

喪主

ご住職、ありがとうな……。遅れてくるもんも、後20分ほどで着くらしいから――

ほっとした表情でご長男がうなずいていると、またひとつ、足音が近づいてくるのが聞こえた。

???

――おじいさま。住職さんとお話されてるの? わたしも横で聞いていていい?

ぴょんぴょんと跳ねるように走ってきて、ご長男の横へ並ぶ女性。
彼女を見て、私ははっとする。

明了

(あっ……この間、門前を通りかかったお嬢さん?)

明了

(この方も、トメさんのご親族だったのですか)

喪主

はは、すまんのう、落ち着きのない孫娘で。

喪主

うちの三女の末娘で、直というんだ。

はい、初めまして、西灘直と言います。

……このお寺の住職さんよね?

彼女は首を傾げると、何かを確かめるように、私をしげしげと眺めてきた。

明了

ええ、玄宗院明了と申します。

メイリョウ……

やっぱり、貴方だったのね。

明了

えっ……?

にっこり笑った直さんに戸惑っていると、直さんは両手を広げて――

いつも大おばあさまがお話になっていた『明了ちゃん』に、会いたいと思っていたの!

そのまま、ぎゅっと私に抱きついてきたのだった。