山手八番館
~9話~

杏理の部屋

杏理

(武志先輩……本当に行っちゃうんだなぁ……)

ベッドの上で先輩からもらったDVDを虚ろに見ながら、魂が抜けてしまった人間のような口振りで一人呟いた。

『俺、高校卒業したら東京の専門学校に行こうと思ってるんだ……』

さっき聞いた先輩の台詞が頭の中でずっと木霊していた。

杏理

(……私にとって“武志先輩”って何なんだろう?)

今まであまり深く考えないようにしていた、というよりは意識して避けていた疑問。

図書館で初めて会った時には、それほど“運命”とか感じなかった。

きっと、“一目惚れ”とかじゃなかったのだと思う。

杏理

(最初に意識したのっていつなんだろう……。
映画の話をして、すごく楽しいなと思って……)

杏理

(なんだかいつもの自分とは違うなぁって意識したのは、初めて映画同好会に誘ってもらった時かなぁ……)

杏理

(普段ほとんど気にしないのに、この時はちょっぴり服装とかも気にしたっけ)

杏理

(私にとってシュナイダー作品に近づくことイコール、先輩に近づくことだったんだろうなぁ……)

杏理

(今こうして客観的に考えてみると、……そういうことだよね)

『自分だとなかなか客観的に見れないからさ』

杏理

(ほんと、その通りだよ……)

ケースに映る自分を確かめて言った。

杏理

(……逆に、先輩にとって“私”って何なんだろう?)

杏理

(……単なる仲間? 後輩?それとも……)

それまで無意識に避けてきたのは、“その時”が来るのが怖かったから。

それを意識してしまうと、それまでの先輩との関係が壊れそうだったから。

……きっと、良い関係になれたとしても、今の私にはどこか窮屈で、今まで以上に楽しくならないような、そんな予感がしていたからだ。

杏理

(じゃあ、いったい私はどうしたいのだろう……?)

杏理

(先輩を独占したいわけじゃないけど離れたくはない……。
そんな都合のいい関係なんて……)

何度考えても堂々巡りで、結局私は先輩とどういう関係になりたいのか、答えは出せないままだった。

杏理

(やっぱり私は、先輩が好きな映画や興味があるものが好きで……)

杏理

(そのことを共有できる“武志先輩”がそばにいて欲しいだけなのかなぁ……)

先輩からもらったDVDをじっと眺めた。

気が付けば、もう一度試写で観たDVDを再生していた。

杏理

……間違いなく、先輩は才能あるよね。

杏理

あ、ここも、編集の順番変えてこうしたんだ……。
このほうが絶対に面白い!

独り言をぶつぶつと言いながら、改めて丁寧に編集されているDVDを観て、先輩の才能とこだわりを感じていた。

杏理

(やっぱり、先輩の映画は面白いなぁ)

2度目のエンディングを迎え、本編の再生が終わった後もしばらく余韻に浸ってぼうっと画面を眺めていた。

その時だった――。

しばらくフィルムのノイズのような画面になったかと思うと、再び映像が映し出された。

杏理

(……これは? 編集の消し忘れ……かな?)

そこには、メイキングフィルムのような撮影現場を他のカメラで撮った「裏方の映像」が流れていた。

私が初めて撮影現場に見に行った時の映像から始まり、買い物のお手伝いや、待ち時間の女子トーク、いつ撮っていたのかさえわからない隠し撮りのようなものまで、映画の撮影を通して私を中心としたメイキングシーンが数分間に渡って入っていたのだった。

杏理

(こんなの、いつの間に……。
しかも、これきっとスタッフや関係者ごとに編集されている気がする……)

私のDVDには私専用の編集がされていたということだ。

杏理

(そんな暇なかったはずなのに、先輩……)

突然胸が熱くなった。

流れる映像も私が初めて代役を頼まれて悩んでいるシーンから、撮影後の涙ぐむシーンまで、本当にいつ撮られていたのかわからないシーンが映し出されていて、その時の思いと、今の思いが複雑に入り混じり、私はまともに映像を観ることができなくなっていた。

杏理

……本当に、楽しかったなぁ……。

涙でにじむ自分の映像を観ながら、周りにいた皆の優しさや、先輩の温かい目があったことを知った。

杏理

皆、いい人たちばっかりで……。
……もう会えないのかなぁ。

そう思うと、ぐっと涙が目元に押し寄せてきた。

それでも、ここで泣きはじめてしまうと自分では止められないような気がして、何とか踏みとどまった。

踏みとどまったのだけれど……。

映された映像の最後に、画面いっぱいに表示された文字を見て、私の涙腺はついに崩壊してしまった。

『杏理がつなぐ全ての出会いに、感謝を込めて……』

浮き上がるようにして画面に映し出されたそのメッセージは、先輩から私に向けた感謝のメッセージだった。

杏理

わ、私なんて……何も……してないのに……。

私はひどく泣きじゃくってしまった。

それまで何とか堰き止めていた最後の感情ごと、洗いざらい押し流されていったような気分だった。

杏理

せ、先輩……。
うぐっ……。

嗚咽は息ができなくなるくらい激しいものとなり、私が今まで生きていた中で最も泣いた日となった。

泣きながら、それまでのことを思い出してはまた涙に戻していった。

そんなことが永遠に続くかと思ったが、しばらく泣いた後、ふと、私は居ても立ってもいられなくなっていた。

杏理

(先輩に……先輩に会いたい……)

上手く説明はできないけれど、いろんな想いが噴出してくる中、先輩に伝え忘れた“想い”を伝えなければと。

それは告白とかではなく、もっとシンプルな感謝の気持ち……。

杏理

(このまま、何も言わないときっと後悔する。
だから会いに行かなくちゃ)

杏理

(卒業後の進路のことを言ってくれなかったこととかで拗ねてる場合じゃない)

杏理

(先輩には先輩の考え方があるだろうし私は先輩の彼女でもなんでもない)

杏理

(そんなことよりも、もっと大事なことを伝えなきゃ……)

そう思うと、体が勝手に動き出し、くしゃくしゃになった顔と髪を適当に整えたかと思うと、家を飛び出すようにして先輩がいる山手八番館に向かった私だった。

山手八番館

杏理

はぁっ……はぁ……。
着いた……。

私は少しでも早く先輩に会いたくて、走って山手八番館までやってきた。

数時間前まで皆で試写会をやっていた所だが、さすがに今はその様子はない。

杏理

(先輩いるかなぁ……? メッセージで先に確認すればよかったんだけど……)

とにかく会いたいと思っていたさっきまでの私には、その選択肢はなかった。

しばらく館の周りをうろうろした後。

杏理

(あの家に行っていきなり呼び出すのもなんだし、ここからメッセージ送って、居るかどうか確かめるか)

私は早速スマホを取り出して、今家に居るかどうか、先輩にメッセージを送った。

しばらくして先輩から返信が届いた。

武志

『今はうちにはいないよ。
どうして?』

杏理

(ど、どうしてと言われても……。
さすがに『先輩に会いたいから』と直球ではいえないし……)

杏理

『それじゃ、結構です。
気にしないでください。
今日はありがとうございました。
また連絡しますね』……っと。

高ぶっていた気持ちが落ち着きを取り戻すと同時に、想像以上の失望感が心を支配していった。

杏理

(……うまくいかないものだよね)

そう思いながらスマホを片付けようとした時だった。

再びメッセージの着信を伝える振動が手に伝わる。

武志

『もしかして、俺に会いに来てくれたとか?』

画面を見てどきりとした。

杏理

『なぜそう思ったんですか?』

できるだけ冷静を装いながら返信した。

武志

『だって、今俺、杏理ちゃんの後ろにいるからさ』

杏理

……えっ!?

思わず声が出てしまった。

恐る恐る後ろを振り返ると、そこには見知った人が、少し意地悪な笑顔を浮かべて立っていたのだった。

杏理

せ、先輩っ!!

武志

やぁ、杏理ちゃん。

恥ずかしさと嬉しさが混じった何ともいえない複雑な気持ちになっていたが、溢れ出てくる涙だけは共通していた。

先輩の姿を捉えた私の体は何も考えることなく、次の瞬間、先輩の胸に飛び込んでいた。

武志

えっ……、な、なに!? どうしたの、杏理ちゃん?

杏理

驚かせた罰です……。
……少し、このままにさせてください。

武志

…………ああ。

私は、しばらくの間先輩のぬくもりと、先輩の音、先輩の匂いを感じていた。

感じていたというよりも、最初で最後になるかもしれないその感覚を、体に覚えさせようとしていたのかもしれない。

そんな私の頭を、先輩は泣いた子をあやすように優しく撫でてくれていた。

ひと撫でごとに、気持ちが落ち着いていく。

冷静に考えたら、私は今かなり恥ずかしいことをしているのかもしれない。

だけど、この心地よさは一生忘れないと思う。

武志

……そろそろ、大丈夫かな?

杏理

……はい。
突然すみませんでした。

私はうずくまっていた先輩の胸から顔を離した。

その時ちらりと先輩の顔を見たが、さすがに顔を見続けるのは恥ずかしかった。

武志

……ううん。
こんな俺にしがみついてくる子なんてそうそういないから、驚いちゃった。

杏理

そんなことないです。
……先輩、かっこいいですよ。

武志

……ありがとう。

杏理

……あ、ええっと、今日は本当にありがとうございました。
頂いたDVDのお礼を言いたくて……。

武志

あのDVD、最後まで観てくれたんだ。

私はこくりと頷いた。

杏理

あれを観た途端、何だかとっても先輩に会いたくなって……。

杏理

色々とお礼を言わなきゃいけないのは私のほうなのに。

杏理

本当に、今までありがとうございました!

武志

……杏理ちゃん。
こちらこそ、ありがとう。

武志

杏理ちゃんのお陰で、毎日が刺激的で楽しかったよ。
作品にもすごくいい影響が出てると思う。

杏理

……よかった。
こんな私でも、少しは先輩の役に立てたんですね。

杏理

それだけで私……。

万感の思いが胸を過ぎった。

不思議とさっきまでの切ない想いはどこかへ消え去り、自然と笑顔がこぼれてしまう。

武志

…………。
うん、いい笑顔だね。

先輩は、いつもの指で作ったフレームを覗きこみながら言った。

杏理

……あっ。

このポーズ、このセリフどこかで見聞きしたことがあった。

杏理

(……そうか、あの時、先輩に図書館でシュナイダー関連の本を借りた時だ)

杏理

(思えば、私はあの時から武志先輩のことが好きだったのかもしれない……)

杏理

(私を知らない世界に案内してくれる“水先案内人”のような先輩に……)

武志

ん? どうかした、杏理ちゃん?

杏理

いいえ。
ちょっとデジャブかなと思って。

武志

デジャブ? 既視感……ってことだよね? 前にもあったっけ?

杏理

ふふふっ……。
覚えてないんですか?

武志

……ごめん。

武志

杏理ちゃんと初めて出会った時はシュナイダー作品を語れる女子がいて、すごく嬉しかったのを覚えてる。

杏理

(先輩らしいなぁ……。
でも、そういうところが先輩の良い所でもあるんだよね……)

杏理

私も、嬉しかったですよ。
次の人に借りられないために、ずっと“見張ってて”くれたんですもの。

武志

あははは、まぁあれはどうしても杏理ちゃんにあの本、読んでほしかったからね。

武志

仲間が増えるのは、楽しいもんだよ。

杏理

……仲間……か。

武志

えっ、なんか言った?

杏理

ですよね。
同じ趣味を持つ仲間が増えるのって楽しいですよね。

武志

うん。

子供のような笑顔で微笑んだ武志先輩。

私はこの時、今は自分の想いを伝えるべきじゃないと理解した。

私の大好きな先輩は、今はまだ未来しか見ていないのだから。