山手八番館
~4話~

【==== 図書室 ====】

杏理

失礼しまーす……。

その日の図書室は人もまばらで、ぱらぱらと何人かが本を読んでいるだけだった。

見回しても先輩の姿はなく、やっぱり……とちょっと落胆してしまう。

杏理

(ううん、気を取り直して……返却された本は、しばらく受付横の棚に置いてあるよね)

杏理

(え~っと……)

武志

遅かったね、杏理ちゃん。

杏理

――きゃっ!?

突然後ろから声をかけられて、私は思わず悲鳴を上げていた。

私の驚きように、先輩もぎょっとしているみたいだ。

杏理

あれっ、先輩!? どこから……

武志

え? あ、ああ、さっき向こうで本選んでたんだ。

杏理

(……あ、そうか。
本棚の間にいたから、ちょうど死角になって見えなかったんだ)

武志

隠れてたつもりはなかったんだけど、驚かしちゃったのならゴメン。

杏理

い、いえ……! 私が勝手にいないと思いこんじゃってただけですし。

杏理

……というか、また騒いじゃってましたね。

武志

そうだ。
しー、だね。

先輩は苦笑して、形のいい人差し指を唇の前に立てる。

ちょっとした仕草が何だか格好良くて、少し胸が熱くなった。

杏理

……でも先輩、私遅くなったのに……もしかして、待っててくれたんですか?

武志

うん。
ほら、俺がいらないって言ったせいで、予約とかしなかったでしょ?

武志

でも杏理ちゃんが来るまでの間に万が一誰かが借りるといけないと思って、見張り役。

武志

案の定、借りようとする人いなかったけどね。

杏理

先輩……ありがとうございます。

武志

いえいえ。
はい、俺が借りてたの、これとこれだから。

返却棚から先輩が取り出したのは、監督の作品を多数の評論家の人が考察する評論集、そして実際の撮影技術をメインに扱った、『シュナイダー流撮影論』という本だった。

杏理

わあ……! ……重い。

武志

あはは。
本に対して『重い』ってどういう感想?

杏理

いえ、読み応えがありそうだなーと思って……

気づくと先輩は数歩下がって、指で作ったフレームを私の方に向けていた。

武志

いい笑顔だね。

うるさくしちゃいけないと思ってか、どこか囁くような声。

じわりと頬が火照って、胸が締めつけられる。

杏理

……そんな……。

武志

杏理ちゃんってお遊戯会とか、文化祭の劇とか、出たことある?

杏理

ど、どうしてそんなこと聞くんですか?

武志

いやー、うちの会っていつも人手不足なもんで。

杏理

演技経験なんかないですよっ。

武志

未経験でもOK、アットホームな同好会なんだけど。

杏理

もう、からかわないでくださいってば……。

軽口なのはわかってるけど、勧誘なんてされたら調子に乗ってしまいそうだ。

杏理

(演技が上手いとか、裏方でも手伝えることがあるならまだしも、私がいたって何もできないし……)

武志

いや、俺は別にからかってるわけじゃ……

杏理

そ、そうだ、先輩。
今日はその同好会は?

武志

え? ……あ、まずい。
撮影あるから、もう出ないとだ。

武志

杏理ちゃんの方は、部活とか入ってるんだっけ?

杏理

いえ、帰宅部です。
今日もそうですけど、バイトがあるので。

武志

そっか。
じゃあ途中まで一緒に帰ろうか。
俺同じ方面だしさ。

杏理

え……、……は、はいっ。

杏理

(…………)

杏理

(…………さっき、ドキッとしたのって……)

杏理

(う、ううん、まさかね……)

北野坂

思いがけず、2日続けて並んで歩くことになった帰り道。

昨日送ってもらった時は夜だったし学校からも離れていたけど、今は周囲の目が気になって、つい緊張してしまう。

だけど武志先輩はいつも通りの自然体だったから、そのことには少し安堵できた。

杏理

そうだ。
先輩、このパンフレット、お返ししますね。

私は思い出して、バッグの中から『あしたの友達』のパンフレットを出して渡す。

杏理

写真とかインタビューもそうですけど、カットになったシーンのこととかも色々載ってて、すごく面白かったです!

武志

そう言ってもらえると貸した甲斐があったよ。

武志

他の映画のパンフレットも持ってるから、見たらまた教えて。

杏理

はい、ありがとうございます!

武志

…………。

杏理

……先輩?

武志

……杏理ちゃんさ。
今日はバイトがあるって言ってたから無理だろうけど、良かったら今度、俺たちの撮影を見学にこない?

杏理

えっ……

武志

もちろん、無理強いして同好会に入れるみたいなことはしないから。

杏理

い……いいんですか? 関係ない私が行ったら邪魔になっちゃうんじゃ……。

武志

そんなことないよ。
こういうのって、むしろ外部で見てくれる人がいるとモチベ上がるもんなんだ。

武志

それに真剣に撮ってはいるけど、撮影時以外は雰囲気緩いしね。

武志

変わってる人もいるけど皆いい奴だから、歓迎してくれると思うよ。

杏理

……そうですか?

杏理

あの……ご迷惑じゃないなら、ぜひお邪魔してみたいです。

武志

うん! 見学っていうかまぁ、遊びに来る程度の気持ちでいいから。

武志

杏理ちゃんの予定は、土曜か日曜なら大丈夫かな?

杏理

はい、休日ならどちらでも。

武志

そうだな、じゃあ……

先輩は呟きながら、携帯でスケジュールを確認しているようだ。

武志

日曜のお昼前……10時くらいならどう? 学校の近くの公園で撮影してるから。

杏理

それなら大丈夫です。
見学に行かせてもらいますね。

武志

ああ、楽しみに待ってるよ。

杏理

私も……。
そういう撮影現場を身近で見たことないので、すごく興味深いです。

杏理

先輩、プロの映画監督を目指したりしてるんですか?

武志

…………。

軽い気持ちでした問いに、先輩はふっと微笑む。

すごく大人びた表情だった。

武志

そうだね。
父の影響もあって。

杏理

お父さんの? もしかして……

武志

スペイン人で、フェリウ・サンセン・バルトゥアルって言うんだ。
現役で映画監督やっててね。

杏理

……そうだったんですね……。
あのっ、すみません、不勉強で。

武志

いや、全然! そんなに有名じゃないし、日本未公開の作品も多いから、当たり前だよ。

武志

でも俺は、父さんの映画好きなんだ。
身内びいきなしに。

武志

一応家は日本にあるんだけど、しょっちゅう撮影で海外に行っちゃってさ。

武志

何歳になっても、映画が好きなままなんだな~って。

杏理

……先輩も、お父さんみたいになりたいですか?

武志

そっくりになるだろうって、今から母さんに言われてるよ。

武志

でも、海外行く度に土産を山ほど買ってくるなよ、それは父さんだけで十分だからってさ。

杏理

ふふっ、仲良さそうな家族ですね。

武志

母さんと弟には呆れられてるけどね。
大目に見てはもらってるから感謝しなきゃ。

武志

……だけど、俺は、父さんの真似をするつもりはないんだ。

武志

父さんの映画はすごいけど、それは父さんにしか撮れないものだし……

武志

俺も、俺にしか撮れない映画を作りたい。

武志

まあ、技術は遠慮なく盗ませてもらうけどね。

最後は冗談めかしたけど、先輩の声は真剣だったし、真面目だった。

そんな彼が、オレンジ色の陽光に、キラキラ輝いて見える。

杏理

……先輩って、本当に格好いいですね。

武志

…………え!? な、何? 急に。

杏理

あっ、その……すみません! 今のは見た目がとかそういう意味じゃなくて!

杏理

いや、先輩の見た目が格好良くないってわけじゃないんですけど……!

武志

わ、わかったから落ち着いて。

先輩に慌ててなだめられ、私は必死に深呼吸を繰り返した。

杏理

……ええっと、私が言いたかったのはですね。

杏理

そうやって自分の目標がちゃんとあって、それに向かって頑張ってる姿が格好いいなって……思ったんです。

武志

そ……そうかな?

杏理

はい。
私はそういう決まった目標とか夢がまだないので、余計にそう感じたんだと思います。

武志

……でも杏理ちゃん、まだ1年なんだし、それで普通なんじゃないかな。

杏理

……そうかもしれませんけど……。

杏理

私、もらってばっかりだなって思うんです。

杏理

大好きな読書をしてるとき、内容にたくさん楽しませてもらったり、色んなことを教わったり……。

杏理

だけどそうやって蓄積したものを、私、役立てることも、形にすることもできてない。

武志

…………。

杏理

プロになる狭き門を目指して本気で頑張ってる先輩はもちろん、本業じゃなくて趣味でやってる人たちも、すごいなあって思います。

杏理

例えばちょっとした時間に作った小物を売ったり、飼っているペットの写真や、飼い方の情報をブログに載せたり……

杏理

今って、アマチュアでも色んな方法で発信できる時代なんですよね。

杏理

それなのに私には、発信できるものが何もない。
それが、面白くない人間だなあって……

武志

……杏理ちゃん……

杏理

(…………あ)

杏理

ごっ……ごめんなさい! 変な愚痴を長々と……! そんなこと言われても困りますよね!

武志

ううん。
聞かせてもらえて嬉しかったよ。

杏理

…………え……。

武志

悩んでる杏理ちゃんにこう言うのも何かもしれないけど、人生に対して真剣に向き合ってる人の言葉は、すごくためになると思ってる。

武志

それが、答えが出ずに困ってる時のものであっても。

杏理

(人生に対して、真剣に……)

武志

それに杏理ちゃんはえらいよ。
だって、誰かに楽しい思いをさせてもらった分、自分もお返しをしたい……って、そういうことだよね?

武志

今はその方法がまだ見つからずに、探してる途中ってだけで。

杏理

……お返しをしたい……。

杏理

私……そういうことなんでしょうか……?

武志

きっとそうだよ。
えらいじゃん、してもらうばっかりで終わらずに自分も……って考えられるなんて。

武志

そう思うと、自分を褒めてあげたくならない?

杏理

…………ちょ、ちょっとは。

武志

うん、ちょっとずつでいいと思うよ。

武志

俺もそんなに人生経験豊富じゃないから、こうすればいいなんてアドバイスできないけどさ。

武志

杏理ちゃんだけの答えが、きっと見つかるはずだよ。

杏理

……はい。
聞いてくださってありがとうございました、先輩。

武志

マジで聞いただけだけど。
聞いてもらうだけで楽になるってこともあるよね。

パタパタと手を左右に振る先輩は、また少し照れているように見えた。

武志

あ……俺、家こっちだから。

杏理

はい! じゃあまた今度。

杏理

日曜の撮影も楽しみにしてますね!

武志

うん。
俺たちもみっともないとこ見せないように、気合い入れとく。

じゃーねーと笑って、彼が角を曲がって歩いていく。

私も家の方へ足を向けながら、何となくふわふわしたような気分だった。

夕陽に照らされた街並みが眩しい。

自分の心臓の音が、やけに耳へ響く。

杏理

(………………)

杏理

(いっ、いやいや……! まさか、まさかだよね……!!)