山手八番館
~7話~

北野坂

さとみ

県外だから、引っ越して1人暮らしになるらしいよ。

杏理

(…………っ)

1人でなんて、やっていけるのかな? ……って1人じゃなかったりして。

杏理

………………。

えっ……

さとみ

……も、もしかして、杏理ちゃん聞いてない?

一瞬、ざわっとした空気が広がった。

杏理

……えっと、なんとなくそうなのかなぁって思ってはいたんですけど、ちゃんとした話としてはまだ……。

夏子

……ああ、っと、ごめんなさい。
私が余計なこと聞いちゃったから。

夏子

……本当に武志くんったら遅いわね。
どこ行っちゃったのかしら、もう。

夏子さんがその場を取り繕うように話題を変えた。

私だけがその話題を知らないことに気を遣ってくれたのか、あるいはそれ以上の何か意味があったのかはわからなかったが、私自身、そのことが気にならなかったといえば嘘になる。

ずっと気にはなっていたけど、怖くて聞けなかったこと――。

『武志先輩の卒業後の進路』

せっかくこうしてこれまでの日常から逸脱し、新しい仲間たちと送る別世界。
非日常的な生活。

その中心にいる先輩がいなくなることでこの非日常の世界が崩れてしまうのではないかという漠然とした不安。

まさか、こうして第三者から間接的に聞くことになるとは、思ってもみなかった。

ある程度“想定していた”ことではあったけれど、それなりにショックなことではあった。

――だけど。

今私の心を大きく揺さぶっているのはそのことではなく、『なぜ私には教えてくれていないのか』だった。

杏理

(先輩にとっては、私は映画同好会メンバーの一員ですらないのかなぁ……)

みんなが話す話題に口だけは合わせていたけれど、内容なんかは上の空だった。

そうこうしているうちに、ようやく武志先輩が長い電話から戻ってきた。

だが、その顔には悲壮感が漂っていた。

武志

……まいったなぁ。

泰行

……??? どうしたの、暗い顔しちゃって?

武志

いや、それがさ、オミさんの紹介で頼んでた『時の女神』役の子がさ、インフルで来れなくなったって。

泰行

えっ、それ厳しくないか?

草太

マジですか!? 運良く雪も降ってきたからバッチリだと思ってたのに。

武志

うん。
インフルだから万一他の人にも移しちゃまずいってことで、今回は辞退したいって。

インフルエンザじゃ仕方ないよ。
プロじゃないから体調管理とか言い出してもどうしようもないしね。

悠飛

じゃあ、せっかくのロケーションだが、そのシーンは後回しだな。

夏子

こんなに綺麗な雪なのに、残念。

武志

……ただそれがね、オミさんいわく、「杏理ちゃんなら代役できるんじゃないか」って。

杏理

(……えっ!!)

泰行

……うん、それはいいアイデアかも。

イメージはそれほど違ってないし、背丈もほとんど同じくらいだよね。

杏理

(え、……ええっ!?)

草太

じゃ、もうそれで決まりじゃですか。
武志くん、何か引っかかってるの?

武志

そりゃ俺だって杏理ちゃんがやってくれるなら万々歳だけど……

武志

なんせ急な話だし、たまたま目の前にいるからって、やっつけみたいなのもどうかと……。

悠飛

当の杏理ちゃんはどうなんだい?

杏理

……ええっと、私は……

先輩の影響もあり、映画を作るほうにはほんの少し興味はあるけれど……。

まさか自分が映画に出るなんて、考えもしなかった。

武志

映画ってみんなで楽しく作れないと、無理した部分が作品に出ちゃうんだ。

武志

だから、俺は無理に頼もうとは思ってないよ。

武志

ただ、監督やらせてもらってる俺としては、前から杏理ちゃんには何かで出演してほしいなぁとは思ってたんだ。

杏理

(……えっ……)

武志

杏理ちゃん、自分が思ってるよりも雰囲気あるし、『時の女神』はイメージも近いと思う。

武志

こんなに都合よく雪も降ってきてるし、これも何かの縁かもしれない。

泰行

さすが監督、今日はグイグイ行くね。
でも、本当にいいと思うよ。

武志

どう? 杏理ちゃんがよければ考えてみてくれないかな?

前に一度脚本を読ませてもらっていたので、大体どんな役柄なのかはわかってはいた。

杏理

(先輩や、みんなの役には立ちたい。
それに……先輩が卒業しちゃったら、私は…………)

杏理

わ、私で……よければ……。

武志

ほ、本当!! すっごい助かる!撮影の遅れも最小限で済むし。

さとみ

杏理ちゃんの映画デビュー、いいんじゃない。

まゆ

やった、やったー!! 杏理ちゃん、可愛いから大丈夫だよ。

草太

記念すべきデビューの相手は、この僕しかいないと思っていたけど、それは次回作ってことで。

悠飛

次回があるかどうかはわからないけどな。

草太

えーっ。

武志

それじゃみなさん、『時の女神』役の代役が決まったということで、イタルとリオの邂逅のシーンから撮ります。

武志

いい感じで雪も降ってくれてるんで、今のうちに撮れるだけ撮っちゃいたいと思ってます。

武志

杏理ちゃんに本読みとかメイクをしてもらってる間に、シーン84のカット2を撮るんで、準備の方お願いしまーす。

武志

ってことで、一先ず杏理ちゃんはメイクをしてもらおうかな。

杏理

メ、メイク……ですか!? 私あんまり化粧しないんで……

武志

ああ、メイクといってもこのシーンの『時の女神』は人の姿をしてるんで、朋さんに聞いてもらえれば大丈夫。

はいはい、杏理ちゃんのメイクのことは任せといて。
元がいいから、やりがいありそう。

杏理

そんなことないですよー。

私は無意識に頬を隠した。
普段から化粧はほとんどしないし、手入れなんかもあんまり気合いは入れてないから、人に見られるのは恥ずかしいし緊張する。

武志

じゃ、そっちお願いします。
できたら、役と芝居の説明をするんで、声掛けてね。

杏理

あ、はい。

そう言うと、先輩は台本を確認しつつ、次に撮るシーンの現場に向かった。

それじゃ先に、車に着替えがあるから、衣装に着替えてからメイクと髪のセットしまようか。

杏理

よろしくお願いします。

私は朋さんに連れられ、着替え用の車の中で衣装を着てみた。

【==== ワンボックスカー車内 ====】

まあ、ぴったりじゃない! これなら調整するところもなさそうだね。
どこかきついとこある?

杏理

……いいえ。
大丈夫です。

私が普段着るような服ではなかったけど、白を基調にしつつも、今時の高校生が着てそうな衣装だった。

杏理ちゃん、案外こういう系も似合うよね。

杏理

ははは……そ、そうですか。

さっきまで落ち込んでいた気持ちが意図せず吹っ切れはしたが、今度は体験したことのない緊張が私を襲った。

杏理

(今まで傍観者としてしか見ることのなかった先輩の映画に、ワンシーンとはいえ出演させてもらえる……)

衣装を着ることでそのことを実感する。

シュナイダー作品と初めて出会い、それがきっかけで知り合った先輩の映画作りに対する情熱を見てきた私は、いつかこんな日が来ることを願っていたのかもしれない。

“どんな形でもいい、先輩の作品に関わりたい”――と。

それじゃ、外は寒いから、このまま車の中でメイクもしちゃうね。

杏理

あ、はい、お願いします。

杏理

(降って沸いた役とはいえ、私には十分すぎるほどの大役だ。
せめて先輩の心に留まれば……)

……さあ、できたよ。
うーん、われながらいい感じ。

そう言われて目の前にあった鏡を覗き込む。

杏理

……えっ!

そこには私ですら見たことのない、“もうひとりの私”がいた。

決して濃いメイクで別人のようになっているのではなく、あくまで自然に、それでいてキャラが立っている印象だ。

武志くんや他のみんなもびっくりするな、これは。
うふふふっ……。

私と朋さんは準備ができたことを伝えに、武志先輩の元へ向かった。

北野坂

武志

…………あっ、えっ……っと、杏理……ちゃん……!?

杏理

……お、お待たせしました。

泰行

ヒュー、いいねぇ。

草太

……改めまして、お付き合いのほどを……。

他に言うことないのかな? ……にしても、いい意味で、ずいぶんイメージ変わったよね。

まゆ

うん、杏理ちゃんかわいい~!

杏理

……あはは……あ、ありがとう。

みんな撮影の手を止めて私のほうを見ていた。

別に騒ぎ立てるほどでもないと思うのだけど……、と思いながら、私はほんのり顔を赤らめる。

武志

じゃ、じゃあ、ちょうどキリもいいんで、次のカットの前に少し休憩しましょうか。

武志

その間に、杏理ちゃんに役柄の説明をするね。

先輩はそう言うと、ト書きやセリフ以外にびっしりと書き込まれた台本を広げた。

武志

物語の中盤、未来からやってきたイタルと過去からやってきたリオは、まだお互いのことを知らないんだけど、雪の降るこの因果のある街で、偶然すれ違うんだ。

武志

ちょうどその時、時空を監視してた「時の女神」が二人を見つけて、本当は罰を与えるんだけど、二人の運命が見えている「時の女神」はそこでにっこりと微笑む、というシーンなんだ。

杏理

なるほど。

武志

ただ、このにっこりと微笑む意味は色々あって、単に微笑ましいというよりも、その後の2人の苦難を嘲(あざけ)る意味もあったりで、その解釈は最後まで見た人によって違ってていいかなぁと。

杏理

そういう解釈を見た人に任せるところがシュナイダー作品と似てますよね。

武志

そうかもね。
テーマは明示するけど、意見を押し付けたくはないんだよね。

杏理

うんうん、わかります。

武志

杏理ちゃんならその辺の雰囲気がわかると思うんで、まずは自分なりに解釈して芝居してもらっていいかな。

杏理

はい。
わかりました。
とにかくやってみます。

ひとまず、先輩の説明を聞いて私が思ったような芝居でやってみることにした。

セリフはなく、表情と芝居だけで演技するため、素人私にはかなりハードルが高かったが、無事テストやリハーサルも終え、本番を撮ることになった。

杏理

(お願い……うまくいって……)

心臓がバクバクと唸る中、シーンとカットナンバーが書かれた「カチンコ」が、カメラの前で鳴り響く。

武志

……………………カーット! 今の良かったよ、杏理ちゃん。
ちょっと確認するから待っててね。

先輩はそう言うと、今撮ったばかりの映像をモニターで確認した。

何やらカメラマンと話す武志先輩。
主人公である泰行さんと怜さんも覗き込むようにモニターを観る。

武志

……よし。
じゃあ杏理ちゃん、もう一回行こうか。
今度はもう少し目を伏せた状態から上を向いてニヤッとね。

杏理

あ、はい。
わかりました。

私は言われた通りに演技をやり直した。

先輩の演技指導はとても的確で、わかりやすい。

だけど、言われていることはわかるのに、体が上手く言われたようには動いてくれないのだ。

そういうことが8回ほどあって……。
いわゆる「テイク8」というやつだ。

武志

はーい、オッケー! お疲れさまーっ。

モニターを確認した先輩がクシャっと笑う。

杏理

あ……ありがとうございました。
な、何度も……すみませんでした……。

私はしばらくその場から動けなかった。

何度もやり直して迷惑を掛けてしまったこと、それでも何とかやり遂げたという満足感から、無意識に涙がこぼれた。

よくやったよ、杏理ちゃん。
おつかれさま。

うん、初めてとは思えない良い演技だったよ。

泰行

こりゃ、将来が楽しみだね。
お疲れさん。

草太

次回作は僕との恋人役で決まりだね。
お疲れ様でした。

私の周りで拍手が起こった。

杏理

……そんな、みなさん。
ありがとう……ございます……。

なぜだか涙が止まらない。

白い雪の向こう、皆の拍手の先にはカメラを持った先輩の姿があった。

武志

本当に、お疲れさま。

武志

何度もやり直してもらったのは演技が下手だったからじゃなくて、やり直すたびにどんどん良くなっていったから。

武志

素晴らしい演技を、ありがとう。
いつかまた、別の杏理ちゃんも見てみたいね。

私は大声で泣きながら、先輩に抱きついたのだった。