山手八番館
~1話~

北野坂

杏理

…………はぁ~…………。

駅前の映画館から、まだ夢心地のような足取りで出てきた私は、思わず長い吐息をこぼしてしまう。

杏理

(……面白かったなぁ)

そんな感想しか浮かばない自分が情けなくなるくらい、さっき観た映画は興味深いものだった。

杏理

(……どうしよう。
この後は特に予定もなかったから、家に帰ってもいいし、どこかに寄ってもいいんだけど……)

杏理

(…………)

カフェ

喫茶店の店員

お待たせいたしました、レモンティです。

お礼を言って運ばれてきた紅茶を受け取り、その温かさにふっとまた息をつく。

すぐ日常に戻ってしまうには今のこの余韻がもったいなくて、私は喫茶店に入っていた。

湯気の立つティーカップを持ち上げて喉を潤しつつ、つい買ってきてしまったパンフレットをバッグから取り出す。

杏理

(『恋愛サボタージュ』……)

シンプルな表紙に箔押しされた、端正な文字。

元はドイツ映画なので原題から意訳してあるかもしれないけど、それが今日観た映画の邦題だった。

【==== バックヤード ====】

緒方

岡本さん、映画とかってよく観る方?

緒方

実はさ、先売り券買ってた映画に行けなくなっちゃってさ。
俺の代わりにどうかな~と。

きっかけとなったのは、アルバイトしている本屋の先輩である緒方さんが、休憩時間に持ちかけてきた話だった。

杏理

先売り券……ですか?

緒方

そう、コレ。
『恋愛サボタージュ』って映画なんだ。

緒方

元は1980年公開の古い作品で、今回はリバイバル上演なんだけどね。

緒方さんはクリアファイルから、小さめで文字ばかりのチケットを出して掲げる。

緒方

『前売り券』だと上映期間中いつでも行けるんだど、『先売り券』だと日時指定してるから、当日行けないと無駄になっちゃうんだよ。

緒方

いい席で観たい時とか、人気映画で当日券が売り切れそうな時とかには便利なんだけどさ。

杏理

へえっ、こういうのがあるんですね。
実は私、あんまり映画館に行かないので詳しくなくて……。

杏理

映画が嫌いってわけじゃないんですけど。

緒方

そうなんだ。
でもコレ、俺も観たことないんだけど、かなり面白いって評判なんだよね。

緒方

フランツ・シュナイダーって監督で、自称映画ファンならだいたい知ってる、ってくらいには評価されてる人なんだ。

緒方

ほら、岡本さんと俺って、結構本の趣味も合うでしょ?

緒方

だから無駄にしちゃうよりは、岡本さんに楽しんでもらえたらいいかなと思ってさ。

杏理

……そうですね、そこまでオススメされると興味出てきました!

杏理

ありがたく行かせてもらいますね。

チケットを受け取って財布を出そうとすると、緒方さんが笑って手を左右に振った。

緒方

ああ、いいっていいって! ほとんど無理やり押しつけてるようなもんなんだし。

緒方

俺も予定組み直して観にいくつもりだから、その後感想とか聞かせてもらえればそれで十分だよ。

杏理

そ、そうですか? じゃあすみません、お言葉に甘えて……

改めてお礼を言い、チケットを手帳に挟む。

……でもその時の私は……緒方さんには申し訳ないんだけど、正直に言うとあんまり期待していなかった。

高校1年になる今まで、彼氏どころか好きな人もできたことのない私……。

趣味の読書で色んなジャンルの本に触れた中でも、恋愛をメインに据えたものに関しては、強く惹かれることがあまりなかった。

杏理

(私が恋愛経験ゼロで、共感しにくいからなのかなぁ……)

杏理

(恋愛ものと別ジャンルの作品を並べてどっち読む?って聞かれたら、別ジャンルの方を選んじゃうんだよね)

とはいえ「恋愛要素がある作品は全部嫌い!」というわけではもちろんない。

全体的に見て面白そうな部分があれば興味は持つし、作品によっては、登場人物たちの恋愛を応援したくなったりすることも普通にある。

ただ……小さなチケットにはポスター画像や煽り文句が記載されているわけでもなく、緒方さんも敢えてだろうけど映画の内容についてほとんど言わなかったので、想像を膨らませて期待する手がかりもなくて……。

【==== 映画館 ====】

数日後、映画館の席に座った時でも私のワクワク感は低めだった。

杏理

(結構お客さん入ってるなぁ。
緒方さんの言ってた通り、割と評判のいい映画みたい)

杏理

(だけど私、周りに人がいるとちょっと集中しにくくなっちゃうんだよね……)

身じろぎする音とか、抑えた咳やくしゃみでも、現実に引き戻されるような感覚になってしまう。

だから照明が落とされて予告が流れ、そして本編が始まった直後も、まだ真剣に観ようというスイッチが入っていなかった。

――それなのに、いつの間にだったんだろう。

杏理

(…………)

瞬きをする間も惜しむように、私はスクリーンに見入ってしまう。

映画はとある街を舞台にした、いわゆる群像劇だ。

ストーリーの中心には、昔起こったある殺人事件の謎があり、ジャンルとしては恋愛サスペンスものに当たると思う。

『……死に物狂いで忘れたあの日を、また思い出せと? 俺に、もう一度死ねというつもりか?』

『知らないのよ。
何も知らない。
私はいつまで、こう繰り返せばいいの……』

年齢や性別、職業や人種もバラバラな複数の主人公たちが関係し合い、物語を紡いでいく。

『……万一、万が一だ。
その復讐が成ったとして、お前の父親が喜ぶと思うのか?』

『もちろんよ。
パパの幽霊がいるなら、《さすが俺の子だ、ベイビー》ってキスしてくれるわ』

真実を追う者、口をつぐむ者、戦おうとする者、止める者……。

『協力する。
あなたの話した内容は信じられないけど……あなたのことは信じてるから』

『お願いだ、二度と顔を見せないでくれ。
大切なものがあってはできないことを、しなければならないんだ』

複雑な関係性の中にいくつもの恋愛感情が生まれるものの、それが導くものは幸せばかりではなかった。

『大丈夫だよ、何も気にせず、いくらでも泣いていい。
だって、もう大丈夫なんだから……』

困難を乗り越えて結ばれる恋人たちがいる一方で、

『貴様は誰だ? 私のリズはそんなことを言わない。
その姿を返せ、偽者、ペテン師め――』

歪んだ愛を押しつけるあまり、別れようとした恋人を自らの手で殺してしまう人物もいる。

『――おまえ、まだ、自分が幸せになれると思っているのか?』

『私、嬉しいわ。
嘘ばかりついてきたけど、これだけはほんとうなの……』

『何も終わってなどいないんだ。
誰もがそれを知っていて、そして知らないふりをしている』

『……どうして、どうして、あたしばっかり……』

喜び、怒り、悲しみ、後悔、憎悪、恐怖、嫉妬、諦め、狂気、愛情――

描き出される様々な感情を引き立てているのは、その演出だった。

時々挟まれる、『カメラがそのシーンの主人公の視線になる』という場面。

まるで登場人物の中に入って、その視界を見ているような映像。

明るい性格の人物が主人公の時は、美しく晴れ渡る空を眺め、道に咲く花に目を留め、偶然出会った友人と笑顔を交わし、肩を並べて歩き出して……

悲観的な人物が主人公のシーンでは、同じ街を歩いているとは思えないほど、美しい街並みも、すれ違う人々の活気ある姿も視界には入らない。

ひどい苦悩を抱えて不安定になっている登場人物の場合は、もっと変化が大きかった。

ふらふらと揺れて取り留めがなく、見ているだけでこちらも心細くなってくるようなカメラワーク。

光から目を逸らして画面は薄暗く、色すらも褪せているよう……。

事件に関するシーンでは色々説明が入るけど、全体的には、台詞は少なめの方だと思う。

その分、そういった映像演出で伝えられる情感の表現は、削られた言葉を補って余りあるものだった。

杏理

(……すごい……)

生々しい、という言い方が一番近いだろうか。

綺麗なものだけではなく、汚いものだけではない。

全ての登場人物に共感できるわけもないのだけど、でも、『きっと現実の世界でもこんな人はいるんだろうな』と感じた。

映画の中で描かれているのは、私たちなんだ。

どこにでもはいないけど、どこかにいそうなほど、リアリティのある人物たち。

人々が生きていく以上、必ず生まれる感情や愛情、すれ違いが映し出されている。

だから、たとえ登場人物と同じような境遇や考え方でなくても、共感し、胸を打つものがあるんだ。

カフェ

杏理

(…………)

他のお客さんのざわめきをBGMに、ラストシーンを思い出す。

映画は、ハッピーエンドではなかった。

幸せになった人もいるし、そうでない人もいる。

どちらかというと後者の方が多く、物悲しくて切ない結末だった。

杏理

(でも……それぞれの行動からしたら納得の結果だったし、観てよかったって思える)

杏理

(恋愛要素がメインだと自分にはそこまで合わないかなと思ってたけど、考えが変わったな)

杏理

(……恋愛かぁ……)

登場人物の恋、愛の形もそれぞれだった。

誰からも認められる公認カップルや、嫉妬のあまり間違った方法を選んでしまう人、静かに片思いを貫く人、老人になっても互いを敬い愛し続ける夫婦……。

杏理

(私にも、いつか恋ができるのかな)

杏理

(もしそんな日が来るとしたら、私はどんな恋愛をするんだろう……?)

【==== バックヤード ====】

そして翌日、私はシフトに入る前に緒方さんへお礼を言いに行った。

杏理

緒方さん、すごかったです! この前チケットを頂いた映画……!

緒方

え……あっ、そう? そんなに良かった?

杏理

はいっ。
ネタバレになっちゃうので詳しくは言えませんけど……でも、観て後悔はしないと思います。

緒方

おー、そっかそっか! じゃあ俺も楽しみにしておくよ。
楽しんでもらえたなら何よりだ。

杏理

それはもう……。
ありがとうございました、緒方さん。

杏理

そうだ、緒方さんってこの監督のこと詳しくご存知ですか? えっと、フランツ……。

緒方

フランツ・シュナイダーね。
すごく詳しいってほどでもないけど……

緒方

そうだ、この監督についての評論本とかいくつか出てるから、うちの店にもあるかもよ?

緒方

興味あるなら、そういうの読んでみるのもいいかも。

杏理

そうなんですか? そんな本が……

緒方

映画関係の専門用語とか結構多かったから、わかりづらい部分もあるかもしれないけどね。

杏理

へえっ……。
ありがとうございます。
ちょっと調べてみますね!

【==== 書店 ====】

杏理

(う、う~ん……。
さすがに、この金額は……)

その後、私は自分の勤務時間が終わってから映画関係コーナーに行ってみた。

そこにはいくつかシュナイダー監督の関連本が並んでいたものの……

どれも高価で、即決で買える値段ではなかったのだ。

携帯で検索して調べてみると、お店にあったものの他にも何冊か似たような本があったけど、そのどれもが、同じく結構な金額だ。

杏理

(こういう専門っぽい本って高くなっちゃうのが普通だもんね……)

杏理

(無理すれば1冊くらいは……う、ううん。
その前に、学校の図書室で調べてみよう)

杏理

(運が良ければ見つかるかも……!)

【==== 図書室 ====】

図書委員

……そうだね~、その監督に関する本は3冊入ってるんだけど、全部貸出中だね。

杏理

そ、そうですか……。

早速次の日の放課後、私は通っている高校の図書室へ行ってみた。

運がいいのか悪いのか、図書室の蔵書には含まれているものの、誰かが先に借りてしまっているらしい。

杏理

あの、いつ頃に返却予定――

と、尋ねようとした瞬間だった。

ガラッと図書室の扉が開いて、1人の男子生徒が入ってくる。

日本人離れした顔立ちで、ハーフか何かなのかもしれない。

少し年上に見えるから、多分2年か3年の先輩なんだろう。

……でもそんなことより私の目を引いたのは、彼が持っている本だった。

間違いない、携帯で調べた時に見た表紙の画像……。

『フランツ・シュナイダーの映画論』だ。

そう気づいた直後、私の足は勝手に動いている。

杏理

あっ、あの……

杏理

その本、次に私が借りてもいいですか!?

???

……えっ……?