坂の上の異人館
~2話~

アウトドアショップ店内

半ば無理やり連れてこられてしまったアウトドアショップ。

それでも少しずつ、気持ちは前向きになってきていたのに……

乃々花

(うう、急に男の店員さんに代わるなんて……!)

海里

…………?

情けなくうつむいてしまった私へ、真緒と琴子が小声で話しかける。

真緒

もう、乃々花ったら。普通なら、イケメンだーって喜ぶところなのに。別に怖そうな人でもないじゃない。

琴子

まあ、比較的クールな印象はあるから、ののには荷が重かったのかもしれないが……。

海里

え……?

真緒

ああいえ、こっちの話なので、何でも!

真緒

その……私達、同じ短大で栄養学科に通ってる友達なんです。みんな料理が好きなので、山ごはんとかいいよね~とか言ってたところで。

海里

ああ、そうだったんですか。

海里

山での料理や食事は私も好きです。期待を裏切らず、とても面白いと思いますよ。

琴子

と言っても、登山の経験は本当に全くないので、最初はお湯を持っていって、飲み物を作るくらいにしようかとも言っていたんですが。

海里

……ふむ。そうですね……

海里

皆様、どこの山に登るかはもう決めていらっしゃるんですか?

乃々花

(ひゃっ……!?)

ふいに彼がこちらへ顔を向けたのが声の大きさでわかって、冷や汗をかきそうになってしまった。

乃々花

あ、え、えっと……まだ、決め、決まってはいないんです。全然どんな、その、場所があるのかも知らなくて……

真緒

ぶっちゃけ、ノープランなんですよね。

海里

はは、なるほど。そういうことでしたら……

相馬さんは「少々お待ちください」とレジの方へ駆けていき、すぐに一枚のチラシを持って戻ってくる。

海里

当店では登山用品の販売、レンタル以外に、現地講習会やツアーも企画しております。

海里

初心者向けの山歩き講習もありますので、よかったらご検討ください。

真緒

へえ~……講習会だって。

まごついている私をよそに、真緒と琴子はチラシを受け取って覗き込んだ。

琴子

初心者用講習の参加費は……へえ、1,500円か。思っていたより高くないね。

海里

次回の講習は時間も短めで、舗装された道も多い低山を予定していますから。

海里

行き帰りと昼食休憩を含めて、4時間前後くらいになると思います。

真緒

へえ……。例えばこれに参加するとして、どういうものを揃えたらいいんでしょーか?

海里

そうですね……まずはシューズと……できればザック――リュックサックがあると安心かと。

琴子

スニーカーとか手持ちのバッグだと、やっぱり難しいものですかね?

海里

初心者向けの場所であれば、軽装でも大きな問題はないのですが……

海里

ただ登山経験豊富な方は、普通の服と登山用ウェアがどう違うのかを理解していて、装備が守ってくれない分を自分で補うために、歩き方や歩く場所を工夫したりできますからね。

琴子

そうか……素人だと、その装備がないと何がどう危険なのか、どう工夫すればその危険を避けられるのかもわからないから……ということですか。

真緒

なるほどね。料理に喩(たと)えると、プロならレシピをアレンジしたり、足りない材料を代用品にしても上手く扱えるけど、基本やコツを押さえてない素人は、レシピ通りにやっておいた方が安心……みたいなもんかな。

海里

言い得て妙ですね。そのように考えて頂ければ。

海里

ザックについては、登山用のものの方が当然体に負担はかかりにくいのですが、それでも低山日帰り程度なら、普通のバッグで代用したせいで大きなトラブルが起きる……ということはあまりありません。

海里

ですがシューズは、登山の最初から最後まで直接体を支えるものですから。

海里

転んだ一瞬で、足をくじいたり、落ちていた石や木の枝で怪我をしたり、他の人を巻き込んでしまったり……

海里

低山とはいえ、決しておろそかにしてはいけない部分なのです。

琴子

確かに、そう言われると納得ですね……。

真緒

服の方、ウェアはどうですか?

海里

そちらも乾きにくい綿以外の素材でしたら、お持ちの服を組み合わせて使って頂けますよ。

海里

ただ肌に触れるアンダーウェアは、運動に適した速乾性のものがなければお買い求め頂いた方がいいのと、シューズを新しく買われる場合は靴下も靴に合うものを選んで頂くのがベストかと思います。

海里

後はレインウェアですね。雨の時はもちろん、アウターの代わりにもなります。

海里

アウターは、ウィンドブレーカーやジャージをお持ちでしたらそちらでも大丈夫ですよ。

真緒

ふむふむ……。

琴子

……ということらしいが、のの、どうだい?

乃々花

(……………………えっ)

乃々花

え……えっと、『どうだい』っていうのは……

真緒

講習会に参加してみるかどうかとか、手持ちの服で代用できそうなものがあるかどうかとか。

乃々花

ええっと、その……

……相馬さんの視線がこちらへ注がれているのが何となくわかって、またしどろもどろになってしまう。
話を聞いていなかったわけではないものの、今すぐ逃げ出したい気持ちと戦うので精一杯で、説明を深く理解したり、会話を振られた時に何を言おうか考える余裕もなかったのだ。

……だから私は、つい失言をしてしまう。

乃々花

講習会とかは、いいんじゃないかなぁ……。だって……

真緒

『いい』? うん、いいよね! 参加費とか、用意しなきゃいけないものも予想してたより少なかったし!

琴子

ののが乗り気になってくれたみたいでよかったよ。これも山ごはんの恩恵かな。

乃々花

……え……

乃々花

(…………!? ちょっと待って、今のは私、『良い』じゃなくて要らないっていう意味で――)

琴子

講習会は来週の日曜だから……私は予定は大丈夫だな。

真緒

あたしもOK。乃々花もバイト、平日だけだったよね?

乃々花

そうだけど、待って……

真緒

相馬さん。これ、すぐ申し込んじゃうことってできます?

海里

ええ、もちろん構いませんが……。……大丈夫ですか?

乃々花

(…………!!)

2人を止めようと思わず顔を上げていたせいで、こちらを向いた相馬さんとバッチリ視線がぶつかった。

口数の減っていた私が気乗りしていないのではないかと、心配してくれているのだ……と、頭では理解している。
それなのに体は勝手に緊張して、まるで蛇に睨まれた蛙になったみたいだ。

乃々花

……だ……、……だ……

『ダメです』と『大丈夫です』が喉元でぶつかってケンカする。

断ってしまいたい気持ちはもちろん大きいけど、ここで逃げても問題の先送りになるだけだってこともわかってはいた。

乃々花

(……あ……)

左右の手を、両側からそっと温かさが包む。

早く頷きなさいと焚きつける感じではなく、私達がついてるからと改めて伝えるように、真緒と琴子は手を握ってくれていた。

海里

あの……

乃々花

……だ……

乃々花

大丈夫です!

乃々花

講習会、参加させてください……!

アウトドアショップ店内

海里

それではこちらで確かに、お申込みを受付いたしました。ありがとうございます。

乃々花

は、はい……

真緒

よろしくお願いします~。

琴子

いやあ、楽しみだね。

十数分後……。

私達はお店の一角にある申込みカウンターで必要書類を書いて支払いもし、講習会参加の手続きをすっかり終わらせてしまっていた。

海里

書類のコピーを取ってまいりますので、少々お待ちくださいませ。

海里

必要なものは本日お買い求めになられるとのことですので、後ほど改めてご案内いたしますね。

そう言って相馬さんは、一旦『STAFF ONLY』の扉の奥へと消えていく。

乃々花

(はあ、本当に申し込みしちゃった……。これでもう引き返せないんだ)

乃々花

(う、ううん、自分で決めたことだもの。そうやってネガティブに考えないで――)

男性客A

――あれ?

乃々花

(……!?)

また男性の声が響いて、びくっと体が震えた。
こわごわ見上げると、近くを歩いていたらしい男性客数人の視線は、間違いなく私達に注がれている。

それどころか、彼らは気軽にこちらへと近寄ってきた。

男性客A

ねえ、お姉さん達。そのパンフ、もしかして次の講習会に参加するの?

乃々花

(わあああ~っ!?)

男性客B

実は俺達も参加するつもりで――

乃々花

わっ……私!!!!

乃々花

お手洗い借りてくるね! じゃあ!!

――先頭の男性が半径1メートル内に達そうとした瞬間、耐えられなくなって脱兎のように逃げ出してしまう。

どたばたと情けなく、私はどこにあるかもわからないし、特に行きたくもないお手洗いを目指して駆けていった……。

男性客A

…………?

男性客B

……あ、あれ……。俺たち、何か悪いことしちゃったかな。

琴子

いえ……。気にしないでください、すみません。

真緒

こりゃあ前途多難だなあ……

アウトドアショップ店内

乃々花

(……そして迷うし……)

自分に対しての深い溜め息をついて、とぼとぼ歩き出す。
辿り着いたトイレではとりあえず手だけ洗って出てきたものの、広い店内をさ迷ったせいで、元いた売り場を見失ってしまったのだ。

背の高い観葉植物や、使い方もわからない謎の用具が並んだ商品棚が視界を遮って、未開のジャングルに迷い込んでしまったような気持ちにすらなってくる。

乃々花

(……さっきの男の人、逃げちゃったせいで気を悪くしたかなぁ)

乃々花

(講習会の申し込みを決めた時は、自分を変えよう! って本気で思ってたはずなのに)

乃々花

(ちょっと話しかけられただけで、私ってば……)

乃々花

(……さっきは『後戻りはできない』なんて思ったけど、キャンセルしようと思えばできなくも――)

海里

王子さん、こちらにいらしたんですか。

乃々花

ひゃっ!?

乃々花

……あ、す、すみません。勝手に席を外しちゃって……

海里

いえ、問題ございませんよ。

海里

お連れ様には申し込みカウンターでお待ち頂いていますので、元の場所までご案内しますね。

乃々花

はい……。

乃々花

(相馬さん、わざわざ捜しに来てくれたのかな)

彼も親切にしてくれているというのに、体はつい、一定以上の距離を取ってしまう。

乃々花

(……私って、こういうところがダメだよね。一度決めたことなのに、気持ちが揺らいじゃって……)

今までも、男女混じった友達グループで遊びに行こうとか、気軽な合コンに参加してみない? なんて誘われたこともあった。

私もそんな機会に、男性苦手を治そう!と決意して……
でも結局は毎回、怖気づいて参加を取りやめてしまっていたのだ。

私の『男性に対するイメージ』は『小学生の頃のいじめっ子』で止まっている。

……でも本当に止まっているのは、小さい頃のままなのは、私の方なんだ、きっと。

乃々花

(はあ……)

海里

……? 王子さん……?

乃々花

……あ! すみません、すぐ行きます……!

北野坂

それから私達はアドバイスを貰いながら必要なものを買い込み、お店を後にした。

真緒

じゃあ、また今度ねー。

琴子

登山のことにばかり気を取られず、課題もちゃんとやっておくようにな。

乃々花

はあ~い……

乃々花の家リビング

乃々花

ただいま……。

買い物袋を引きずるようにしてリビングに入り、覇気のない声を上げる。

乃々花の母

あら、お帰りなさい。

乃々花の父

お帰り、乃々花。……どうしたんだ? その荷物。

乃々花

えっと……

聞かれて、私は簡単に今日のことを説明した。
友達に誘われてアウトドアショップに行ったこと、登山の講習会に参加すること……。

私はこの期に及んでも、「危ないからやめた方がいい」と止めてもらえないかな~なんて、ちょっぴり期待していたのだけれど……

乃々花の父

……そうかそうか! いやあ、乃々花がアウトドアに興味を持ったのか……!

乃々花の母

まあ……! よかったわね、あなた!

……お父さんとお母さんは、ぱあっと音がしそうなほど顔を輝かせる。

乃々花

(ううっ、この反応は……)

乃々花の母

ちょっとした段差を乗り越えるだけで転んで怪我したり、プールや海に行けば溺れそうになったり……

乃々花の父

乃々花は昔から運動が苦手だったからな。

乃々花の父

無理強いをして取り返しのつかない怪我でもしたらと、あまり外遊びをさせないまま育ててしまったが、お前の体力の無さを心配もしていたんだ。

乃々花の母

山登りっていうと危険がつきもののイメージもあるけど、初心者向けの山で、琴子ちゃんや真緒ちゃん、それにガイドの人達もついてくれるなら安心だわ。

乃々花の父

お前が決めたことなら、父さん達があれこれ反対する必要もない。十分気をつけながら楽しみなさい。

乃々花の母

無理しすぎない程度に頑張ってきなさいね、乃々花。

乃々花

…………う、うん……

乃々花の父

う~む。運動不足解消に、父さんもまた卓球始めてみようかなぁ……

乃々花の母

まあ! 『ドリルサーブの信ちゃん』が復活するのね。

乃々花の父

そういえば母さんとの出会いも、初めて俺が地区大会に出た時に……

乃々花

(…………)

私を放って青春時代の思い出で盛り上がり始めたお父さん達に、これ以上かけられる言葉はなかった。

乃々花

(……さすがにこの状況で、やっぱりやめますとか言えないや)

何とはなしに、手元のウェアやシューズの入った袋を見下ろしてみた。

期待する気持ちがないと言えば嘘になるし、不安な気持ちはないと言えば、やっぱりそれも嘘になる。

乃々花

(登山か……)

乃々花

(勇気を出して新しいことに挑戦したら、こんな私でも、何か成長できるのかな……?)