イタリア館
~2話~

三咲の家リビング

頭がもやもやしたまま、あたしは家に帰ってきていた。

このままじゃいけないのは自分でもわかっている。

ジュゼ(男の人?)のことが気になって目の前のことに手がつかないなんて、少女マンガの世界の話だと思っていた。

“恋わずらい”じゃないのかって言われると、そんな単純な話じゃないと言い返すだろう。
確かにあたしは、これまで男の人を好きになったという記憶はない。

興味がないといえば嘘になるけど、周りの子が騒ぐほど男子に目が向くことはなかった。

今思えば、男子にというよりは家族を含めた人間関係自体に、興味があまりなかったのだと思う。

それでも母さんのことは大好きだし、本当にあたしのことを愛してくれているのも知っている。

べたべたと甘えることはもうないけれど、母さんだけは別格だ。
きっと、父さんが生きていたら、同じように別格だったに違いない。

三咲

(父さんか……)

三咲

(生きていたらやっぱりジュゼのような人なのかな……)

わずかな記憶と残っていた写真を頼りに父さんの顔を思い浮かべる。

だけど、その顔はジュゼとは違い、やっぱり別人だと思ってしまう。

三咲

(歳も違うんだから当たり前か……。ジュゼも若い頃なら似てたりして……)

三咲

(……って、なんでいつも父さんのことを考えるとジュゼが出てくるんだろう……)

三咲

はぁ~。

思わずため息が漏れる。

三咲の母

そんな大きなため息ついて、学校で何かあったの?

物思いに耽(ふけ)っているとでも思ったのか、母さんが心配そうに声をかけてきた。

三咲

……別にぃ。

少しだるそうに答えた。普段から人によってあまり態度を変えないのは母親でも同じだ。

でも、言いやすさは全然違う。

変な意味じゃなくて、母さんには何を言っても大丈夫という安心感があるからだと思う。

――きっとジュゼにも。

三咲の母

えー、あんたまさか、好きな男の子でもできたんじゃないでしょうね?

三咲

……好きな男の子ねぇ。ん~、なんか違うかも。

三咲の母

なんか違うって、どういうこと?

三咲

違うものは違うんだって。だって、そうとしか言えないし。

三咲の母

ふ~ん。最近珍しく女の子の顔してるからさ。

三咲

なにそれ。なんか普段は女の子じゃないみたいじゃない。

三咲の母

ふふっ、まぁそこまでは言わないけど。小さい頃の三咲は本当に可愛かったのよぉ~。

三咲

フォローになってないし。

少し呆れ顔になってぷいと横を向く。

三咲の母

まあでも、三咲にもそういう時期が来たのね。

三咲

いや、だから……。

これ以上にやにや顔の母に何を言っても無駄だと思ったあたしは、ふいに話題を変えた。

三咲

ところでさ母さん、父さんとはどうやって知り合ったの?

三咲の母

……えっ、急に何の話?

三咲

父さんとはどうやって知り合ったのよ?

形勢逆転だ。

今までは母さんに気を遣って、父さんのことを聞くのを遠慮していたけど、今なら聞ける気がする。

あたしもきっと、そういう人と出会う年齢になったから……。

三咲の母

……そうか。三咲ももう大きくなったんだね。

三咲

あはは、何だそれ。そりゃ、大きくもなるよ。母さんには苦労かけただろうけど。

三咲の母

うふふ、そうね。ずいぶん苦労したわ。

三咲

えー、そこ肯定しなくていいから。……で、父さんの話、聞かせてよ。

母さんはソファを回りこんで、あたしの隣に座った。

三咲の母

そうね……。お父さんと母さんが初めて会ったのは大学生の頃だったかしら。

三咲の母

友達に誘われて、K美大の学園祭に行ったのね。そこで出会ったのが一番最初だったかな。

三咲の母

あの人は当時から絵が上手くてね。言葉数は少なかったけど、絵から伝わる情熱は、それはそれはすごかったわ。

三咲

へー、そうなんだ。

三咲の母

よくデートで美術館にも行ったけど、嬉しそうに西洋画や日本画の説明をしてくれたものよ。

三咲

それで母さん、絵のことが詳しいのね。

三咲の母

あら、三咲にそんな話をしたことあったかしら。

三咲

街で見かけたらちょくちょくね。

三咲の母

あらそう。全然覚えてないけど。そういえばお父さん、雰囲気は絵画教室のアボイ先生に似ているかしらね。

三咲

えっ……。

三咲の母

いや、顔は全然似てないわよ。あんなにかっこいい外国人っぽくもないし。

三咲

……ジュゼってかっこいいのかな?

三咲の母

うん、髪型で損をしてるけど、母さん、先生はイケメンだと思うわ~。

なぜか母さんは自慢げな言い方をした。

三咲

ふ~ん、今度ジュゼに言っとくよ。あ、そういえば、ジュゼが今度父さんの作品見てみたいって。

三咲の母

へー、あの先生が? さすが、見る目があるわね~。

三咲の母

お父さんは本当に絵が上手い人だったから、見る人が見たらわかるんじゃないかしら。

三咲の母

……きっと、あの人も喜ぶと思うわ。

三咲

母さん……。

母さんは少し寂しそうな顔をした。

三咲の母

あの人は才能もあって将来も期待されてたから、そのことをもっとみんなに知ってもらわなきゃね。

三咲

……そうだね。

三咲の母

でも、今でももし生きていたら、案外絵画教室の先生にでもなっていたりしてね。

三咲の母

自分が大成することよりも、家庭を選ぶような人だったから……。

三咲

………………。

三咲の母

よくお父さんは、三咲を膝の上に乗せて絵を描いていたわ。

三咲

そうだね、覚えてるよ。

父さんの記憶はほとんどないあたしが唯一覚えているその記憶。

あたしはそこで、父さんが描く絵から何かを感じていた。

感じていたというよりも、その絵があたしに何かを語りかけてくるような、そんな気がしていた。

最初は不思議だったけれど、いつしかそれは、幼いあたしの最大の楽しみとなっていた。

それなのに…………。

父さんが事故で死んでから、ぱたりとその感覚もなくなった。

もっとも、あたしが父さんの『死』を理解したのは、小学校に入ってしばらくしてからだった。

事故に巻き込まれた父さんのことを知らないあたしに、父親の死を受け入れられないと思った母さんや親族達から、父さんは遠くの国にお仕事に行って長い間帰ってこれないんだよ、と聞かされていたのだ。

これも今覚えば、子どもだましな言い訳だと思うけれど、当時の母さんの心境を想像すると、今のあたしにはとても真似できないだろうと思った。

その後何度か「父さんの友人」という人が家に来てお菓子を置いていったが、それも当事者だったのだと思う。

三咲の母

……三咲、どうしたの?長い間黙り込んじゃって。

三咲

あっ、ごめん。ちょっと考え事しちゃってた。

三咲の母

そう、それならいいんだけど。

三咲

うん、それよりあたし、結構本気で母さんに迷惑かけてたのかもしれないね。

三咲の母

…………三咲。急にお父さんのこと聞いたかと思うと、今度は何よ?

三咲

ううん、別にぃ。

あたしは母さんの話をはぐらかすように冗談っぽく言った。

それで母さんは少し安心したのか、あたしの肩を抱いて、優しいトーンで言ってくれた。

三咲の母

あなたが母さんに掛ける迷惑なんて、お父さんの分まで、一生分母さんが面倒みてあげるわよ。

三咲の母

立派な娘に育ってくれて、ありがとうね。

三咲

……母さん……。

あたしは何も言えないまま、ただ鼻をすすりながら、うんうんと母さんの手を握り締め、頷くことしかできなかった。

北野坂

それから数日経ったある日のこと。

この日の学校が終わり、いつものように絵画教室に向かう途中だった。

三咲

(そういえば、無くなりそうな絵の具がいくつかあったような。途中で画材屋に寄って買ってくか)

ジュゼの絵画教室は駅から少し離れた所にあり、画材が必要な時は商店街の画材屋によることが多い。

三咲

(ついでだからテレピンも買っておこうかな)

そんなことを考えながら、画材屋が見える街角までやってくると、ちょうどそこに見知った顔があった。

三咲

(……あれ、ジュゼじゃない。ジュゼも買い物に来てたんだ)

狭い街だから教室以外で会うこともたまにはあるし、この後教室で会うのだから特に用があるわけじゃないけど、こういう偶然の出会いはなんだか少し嬉しくて、あたしは何も考えずにジュゼに駆け寄ろうとした。

三咲

ジュ…ゼ……!?

けど次の瞬間、彼は店の中から現れた教室に通う若い女の人たちに囲まれていた。

絵画教室の若い女性1

あ~、ジュゼッペセンセー!! こんなところで買い物ですかぁ?

絵画教室の若い女性2

へー、センセーもこの店で買ってるんだぁ。いつもどんなもの買ってるんですかぁ~?

矢継ぎ早に、彼女たちの質問責めにあうジュゼ。

ジュゼッペ

やあ、君達か。そりゃ私だって画材くらい買うさ。ネットで買うよりお店のほうが買った気がするからね。

なんだかジュゼが少し嬉しそうに見える。

絵画教室の若い女性1

ですよねぇ~。ネットとかどんなのがくるかわかんないし。

ジュゼッペ

それもあるし、今すぐほしいものもあるからね……。おや、あそこにいるのは三咲じゃないか?

ジュゼが少し離れたところにいたあたしに気付いた。

絵画教室の若い女性2

あ、本当だ三咲ちゃんだ。おーい、三咲ちゃ~ん!

手を振ってあたしを呼ぶその人を無視することもできず、作り笑顔をして彼女たちのそばへ行った。

三咲

……こんな所でみんなに会うなんて、す、すごい偶然ですね……。

絵画教室の若い女性1

だよねー。教室以外で会うことなんてめったにないし。

ジュゼッペ

三咲も、買い物かい?

三咲

ええ……。でもまた今度でもいいかなぁって。

ジュゼッペ

………………。
三咲もこの後、教室へ行くんじゃないのかい?

三咲

……まぁ、一応。

ジュゼッペ

だったらここで待っててあげるから、買ってくればいいよ。その後みんなで一緒に教室へ行こう。

ジュゼはそう言ってみんなに目配せをする。

三咲

え、あっでも……。

絵画教室の若い女性1

そうだよ、待ってるから三咲ちゃんも買っておいでよ。

三咲

…………うん。

あたしは仕方なく、みんなの前を会釈して通り過ぎ、店に入った。

必要なものを買って店を出てきたのはいいけれど、正直気持ちが乗らない。

待ってくれていたみんなには悪いけど、あたしは店の前でしばらく立ち止まっていた。

ジュゼッペ

どうしたんだい、三咲?

三咲

……やっぱり、今日はやめとく。

ジュゼの顔色がさっと変わった。

ジュゼッペ

なんだい、いきなり?体調でも崩したのかい?

三咲

…………。

ジュゼッペ

先日といい、最近あまり調子がよくなさそうだね……。

ジュゼッペ

無理はしない方がいいが、あまり良くならないようなら、病院で診てもらったほうがいいぞ。

ジュゼッペ

来年の受験を考えると、今は大事な時期だよ。ずるずるといかないためにも、病気ならしっかり治しておかないと。

三咲

……そうだね。病気なのかも……。

ジュゼッペ

………………。

絵画教室の若い女性1

そうかぁ、最近三咲ちゃん元気がないから心配だよぉ~。早く治して、教室に顔出してね。

三咲

……うん。

ジュゼは、しばらくの間困った顔をしてあたしを見たあと、ぽんと肩の上に手を乗せて言った。

ジュゼッペ

絵は心の奥底を映し出す鏡だよ。悩みやその答えがわからなければ、絵を描いてそれを客観視することだ。

ジュゼッペ

そうすることで自身の心と向き合うことができる。もし体の調子がどこも悪くなかったら、試してみるのも悪くない。

三咲

……うん、何かあったらそうするよ。

あたしはそう言うと、教室がある方向とは逆の道を歩いていった。

しばらくして振り返ると、ジュゼはみんなに取り囲まれるようにして、楽しそうに会話しながら歩いていた。

三咲

……ジュゼ。

三咲の部屋

その後どうやって家に帰ったのか覚えていない。気がつくと自分の部屋に戻ってきていた。

三咲

(『絵は心の奥底を映し出す鏡だよ。悩みやその答えがわからなければ、絵を描いてそれを客観視すること』か……)

あたしは何も考えずにクロッキー帳を取り出すと、さっき最後に見たジュゼを描き始めた。

三咲

(……ジュゼ、楽しそうだったなぁ)

ジュゼを中心に教室の生徒達が周りを取り巻く。

別に彼を描きたかったわけじゃないのにと言い訳しながら、何度も描いては消し描いては消しを繰り返していた。

三咲

……はぁ。

大きなため息が漏れる。

ジュゼを描いている自分がなんだか良くわからなくなる。
ふと気付くと、周りを取り囲んでいた生徒達の中にあたしがいる。

三咲

……違うよね。

そう言った後、あたしは消しゴムを何度も往復させ、そこに描かれていた全てを消した。